2010年07月08日

双子評論族VS美輪&北野アーティスト連合

結局、このブログをこれまでのホームページの読者に知らせる手段がないので、なんだか、誰も知らない街に一人引越し暮らし始めた感じだ。旅人の感覚なのか。このまま暮らしていれば、この街でも馴染の店や人間もできるだろうか。

ブログには、写真とかも簡単に載せられるので、こんなのが、昔、ライブなんかやっている頃にあれば楽しかっただろう、と思う。
地元でのライブは、お酒タイムが遅くなるだけで、つまらないので、ライブもやめてしまった。自分主宰のライブは、7、8年やってないかもしれない。写真といえば、普段、携帯メールで写メばっかり載せてやりとりしている連中がいて、ほとんどが笑いを取るためだけの写メだ。

このブログに写真を掲載するかは、現在思案中だ。ブログは、基本的に私のボケ対策なので、文章だけにしている。写メマニアの私が、写真まで付けてしまったら、書くための集中力が低下してしまうからだ。

私に取っては、文章は、楽器以上に武器となっていて、通信生のためのテキストを書いたり、クレームを付けたり、メールを送ったりと、ほとんどこれで暮らしているわけである。普段から携帯メールが長いと言われているが、これは職業柄もあるので、しかたない。常に、語るべき何かを思考していないと商売上がったりだからだ。

ついさっき、録画していたNHKでの美輪明宏と女子高校生が対話する番組を見終えた。私のテレビチェックの一つに、美輪VSおすぎ&ピーコ、北野たけしVSおすぎ、ってのがある。「おかま」という言葉を死語として撲滅したい、とする美輪氏に対して、おすぎ側が、反発し、抗争が勃発したわけである。美輪氏は、これまで「おかま」と侮辱され、失意の下に自殺して行った仲間たちに対しての複雑な思いがあるわけである。ところが、どう見ても美形組のニューハーフにも入れない、おすぎ&ピーコ組は、これに真っ向から反発。

元々は、美輪を慕っていたファンのその道の兄弟であったと言うが、ひょんな事からテレビ受けして人気を得てからは、天下を取ったかのように毒舌を振りまき、お騒がせ発言で視聴率が上がる事から、野村サッチー系のジャンルのタレントとして重宝されているわけである。

何の芸もない、舞台人、芸人でも何でもない、かと言って、「朝まで生テレビ」に出るほどの文化人でもない、他人の批評、批判だけの者が、そこまで言う権利はあるのだろうか、と思うわけであるが、これが、テレビでは、「テレビ有名人」と言うジャンルのくくりで、美輪氏や北野たけし氏の舞台人、芸人とも同列に扱われるわけである。

テレビ有名人というのは、また新しいジャンルであるわけだ。たまたま、美輪氏や北野氏が、芸人、テレビ有名人の両方も兼ねているということになるだろうか。(テレビでは見ているが、美輪氏や北野氏の作品や舞台を見た事がない視聴者も圧倒的に多いだろう。)

20年以上前になるか、ピーコが、ワイドショーのコメンテーターをしていた時なんか、女優の森光子がゲストに来た際、ピーコが、最近の若い人は礼儀を知らないから、と森に言うと森は、「あなたはもっと知らなかったわね!」などと言われていた。

北野VSおすぎの抗争は、一方的で、映画評論家と言う肩書きからか、ビートたけしが映画を作り始めた、80年代頃からの批判者だ。ろくな映画じゃない、という一点ばりだろう。漫才師風情が映画なんかわかるか、という視点かもしれない。ところが、当時、すぐにビートたけしの映画を絶賛したのが、黒澤明監督だったから、やはり本物は本物を見抜くわけである。二人の対談が企画されたりしていた。

ついこの間も、この何年かは欠かさず見ている「題名のない音楽会」で、ピーコが、出て来て、司会で指揮者の佐渡氏相手に弦楽四重奏は、「おかまが4人集まってお喋りしているようだわ!」と評して、くだらない笑いを取っていた。

この発言は、美輪氏が、「おかま」と言う発言を撲滅したい、という発言を知っての行動で、いわば、おすぎ&ピーコの根回し作戦の一環であるわけだが、この事に一般の芸能人は、誰も気づいていないわけだ。もちろん、業界の裏では、この抗争は、当然知っているはずだから、両者が同席する番組はないだろうけど、私が暇つぶしで毎回見ている「題名のない音楽会」まで、音楽とは無縁なピーコが出て来て、陰謀に満ちた作戦を遂行させているわけであるから、あまりいい気はしない。

ピーコと音楽の関係は、同じく20年以上も前のワイドショーで、ピーコが目の手術をして片方が義眼になってからというもの、人の人情がわかったとかで、いきなり、趣味で唄っていたシャンソン歌手になってディナーショーをし始めた映像を番組で見た事がある。びっくりするくらいの音痴だったので、これでお金を取っていいのだろうか、お客さんもびっくりだろう、と寝っころがりながら見て、鼻をほじったりしていた。

近年は、おすぎが映画の話でも番組内で始めると、ほとんどすべてのストーリーを語ってしまう腹立だしさから、すぐにチャンネルを変えるようにしていた。しかし、最近では、「題名のない音楽会」での「おかま」語普及作戦の陰謀が、私には見え見えなので、二人の内、どちらかでも出るとすぐにチャンネルを変えることにした。

どうせ、どの番組でも、放送中に「おかま」と必ず言うか、美輪氏への批判が番組でカットされて放送されているかだろう、と思われる不自然な周りのタレントの反応もあるからだ。発言中の音声にピ~が入っていたりするので、すぐにわかる。

ファッション評論家を称するピーコも私は、ファッションには疎いので、どれほどのものかわからない。安住アナなんか、他の人への服装のコーディネートを見ていると、コーディネートされたモデルがちんちくりんに毎回見えるので、これもいらない。ファッション業界ではどういう扱いかは不明ではある。凄かったら、映画かなんかの衣装デザイナーでもやってんじゃないか、と思ったりはする。

最初は、おすぎだけが、美輪氏や北野氏に批判的だったのか、と思っていたが、やはり兄弟は仲が良いらしく一丸となって裏工作に従事しているようだ。

この事に対して、他の美輪を尊敬する、お姉軍団や一般のタレントはどう対応しているのだろう、と番組から探ろうとしたりするが、おすぎ&ピーコ軍団は、高価な品物を気に入った芸能人にプレゼントする事で知られるプレゼントマニアでもある。
この辺の根回しもぬかりない。私だって、高価なギターをプレゼントされたら、すぐに軍団側になるはずだ。

よく考えれば、美輪氏も兄弟軍団も男性である。男性であると思えば、この抗争も理解できる。美輪氏にとっては、かつての自分の追っかけが、テレビで偉くなり自分を貶めようと裏工作しているわけであるが、こうしたことは、会社でもよくありがちな抗争だ。昭和19年生まれの兄弟と昭和10年生まれの男の抗争なわけだ。

しかし、美輪氏の方は、一時期の兄弟への過激な非難は、カットされているのか、控えているのかわからないが、あれほどの創作活動をこなしている舞台人であれば、無生産な兄弟につきあっても仕方ないとしているのだろうか。まったく、発言で触れている気配がない。

というわけで、普段から兄弟軍団を見ないようにしているというのに、私の領域である音楽の番組にまで突然、出現し、「弦楽四重奏は、4人のおかまのお喋り」、という発言をしてのレッテル付け活動はないだろう。あれは、密かに、視聴者を洗脳しているわけである。

裏の業界では、美形でない「おかま軍団」と美形の「ニューハーフ軍団」の抗争でも勃発してるんだろうか。差別というのは、白人、黒人間と言うよりも、同じ黒人同士の中が、エスカレートしていた、とも言う。ちょっと肌が浅黒いフランス経由の者たちと、アフリカから直行でやって来た者たちだ。(モハメッド・アリとジョー・フレイジャーのボクシング戦だ!アリの色は、黒人系では、さほど黒くない。あの時の舌戦であった。1970年代だったか。)

かつての浅間山荘事件でもあったように、抗争はいつも同胞の間が凄惨でもある。そう考えると、これもまた根が深い抗争なのだろう。私としては、かつての追っかけファンでもあったはずの兄弟軍団にターゲットにされた、スターの美輪氏の方へ同情するわけである。舞台芸人なら当然の事ではある。

自分から何の芸も披露する必要がなく、ただただ批評するだけで、お金が貰える職種は羨ましいではあるが、北野たけし氏は、かつて、一度だけキレて、「映画会社からお金を貰っている人間が、批評家なんて言うんじゃねぇ!」とおすぎに対して言い放った事がある。(私もおすぎ推薦のビデオは見ない。おすぎ大絶賛とパッケージにあった「メージャーリーグ2」で失敗した。)

近年では、裏番組の「レッドカーペット」に負けたという紳助のバリバリバリューの後番組で、これまた、負けてしまった久米宏の番組の最後のゲストして登場した北野たけし氏が、これまでの自分への批判者に対して、「今は、すべてが許せる。みんな自分への嫉妬だと思う事ができたから」とコメントしていた。

以前、美輪氏と北野氏の対談番組もあったが、そこでは、明らかに、北野氏の映画批判者である、おすぎに対して、美輪氏は「そういう事がわからない感性なんだからほっときなさい!」と北野氏を慰めていた。

テレビと言うのは、何も知らないで、ボ~と見ていると、何でも洗脳して来る軍団にあふれているので、アマチャーの視聴者では、騙されてばっかりで大変ではある。

さて、もう一人の観察種族の、野村サッチーの方であるが、最近、なぜか紳助氏の番組に限って良く出て来るので、時間があったらチェックしておこうと思う。前夫との間にできた実の子供二人と実の弟から絶縁された事は、すでに時効として扱われていての子育て教育論であるから、この事に関しては、テレビ側の責任はないのだろうか、と思ったりするわけだ。

言行一致が、教育の基本であるから、私は、何年も、自分は、立派な人間ではない、と言い続けているわけである。

こんないい加減な送り主の情報ばかりを流していたら、いずれテレビが滅びて、みんなインターネットへ移行する、という話も納得できる。少なくともインターネットには選択の自由が無限にあるからである。私のブログだって、読まなければいいだけの話ではあるが、8年ばかし、この調子で長い。



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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │テレビ、映画