2011年07月07日

グアム~バリの旅

そういうわけで、6月25日、土曜日に那覇空港を出て、関西空港からグアム島へ出発。
目的は、関西の友人の結婚式への参加だ。

新郎新婦の親族とその友人一組ずつ、という事で、招待されての出席。
グアム島は、関空から3時間、という事で、初めての土地。

新郎新婦一家は、すでに一日前に別ホテルにて現地入りしている。

http://www.hilton-guam.com/

機内は、すでに関西弁圏内。
それ以外の人種は”沖縄人”の私だけで、発見できず。

3時間後、グアム島到着!

グアム島は、戦後のテレビのクイズ番組の景品で馴染みがある。
昔の「新婚さんいらっしゃい」は、グアムじゃなかったか。

到着時刻は、何と午前1時!

空港でもホテルでも、すべて日本語で、OK。

しかし、現地のグアム人と日本人の顔の区別ができない事が多発!。
どう見ても日本人スタッフだ、と思って日本語で話しかけたら、英語で答える現地人であったりはする。
(当然、その逆もある。)

それにしても、午前2時前だと言うのに、ホテルは、チェックインの日本人でいっぱいだ。(関西人だ!)

http://jp.outriggerguamresort.com/

http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/67791/67791.html?s_kwcid=TC-7869-463156302042-S-20622512042


ホテルの部屋は、15F。

15Fだと言うのに、もの凄い勢いで、エレベーターが移動する。計ったら14秒ほどだ。
普通のエレベーターなら5Fくらいのタイムじゃないか。

こういうエレベーターが、あの事故が多発した外国メーカーのエレベーターではないか、と心配になる。
しかし、心配よりは、よくもまあ、これほどのスピードで、移動するもんだ、と乗る度に関心してしまった。

とりあえず、ビールでも確保するかと近くのコンビニを探すと、出ました!、去年、バリ島でもあちこちで発見した24時間コンビニ「サークルK」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/


しかし、グアムの事情は違っていて、何と法律で、午後11時以降はアルコールを売ってはいけない、と言う。
ビールのコーナーの冷蔵庫の上にもそんな札が英語で貼ってあった。

これを無視して、あちこちの近隣のホテルから集まって来た日本人観光客の男性陣が、冷蔵庫からビールを取り出すが、レジの現地人スタッフに断られる。コンビニの従業員までは、日本語ができるわけではない。黒人風の女性スタッフもいた。

日本人観光客、さらに関西人が、いくら泣いて頼んでもダメなようだった。

しかし、午後11時からアルコールは手に入らない!って、どんな観光地よ!と思う。

ふと、そうか、ここは沖縄と同じで米軍基地があるからか、と疑いを持つ。

沖縄同様、バカな米兵が、夜中、お酒を呑んで騒ぎまくるからか、と。
グアムでは、そのために夜間のアルコール販売を禁止にしたのか、とついつい思ってしまう。

しかたないので、関空の免税店で購入して、トランクに入れて持ち込んだ、焼酎を部屋で飲むことにする。
お酒類は、空港内の免税店でしか購入できない。

そんなこんなでも、午前4時。
レストランやカフェは閉まっているが、ロビーは、人通りも多い、眠らないホテルである。

まだまだ、チェックインやチェックアウトで人がうろうろしていたりする。
そもそも、午前1時到着が可能な空港も珍しい。

とりあえず、明日の結婚式に備えて、午前6時には眠る。

翌日、朝、起きたら昼だった。
正午くらいだ。

朝食を取るために1階のレストランに、物凄い勢いのエレベーターで向かう。

すると、レストランにステージがあり、シンセやボーカルマイクがセッティングされている。

「ココニ バンドマンガイル、、、、」と察知したのか、急に髪の毛が一本立ち上がる。

どこにいるか探しているのだろう。

下駄を履いて、チャンチャンコを着て来るのを忘れたが、アロハとゴム草履、七分ズボンではある。
(このスタイルは、普段、沖縄での服装でもあるけど、、、。何も変わらない!)

クラブサンドを注文する。

すると、突然、ステージが始まる。

何と、色の黒い、黒人のような、お爺さんのようなバンドマンが、打ち込みの音をバックにシンセを弾いているふりをしながら、歌を英語で、歌っている。

こ、こんな人でもこんな立派なホテルのレストランで、昼間っから仕事ができるのか!とびっくりする。沖縄では考えられない。
愛情に溢れたホテルのレストランなのか、、、。

それにしても打ち込みの音やアレンジが凄い。
ちょっと昭和の流行歌の音である。

歌っているのは、ボサノバの「WAVE」であったりするのだが、そのアレンジが、何となく、なつかしいサウンドである。ヤマハの通信講座のドーナツ盤のレコードに付いているようなサウンドだ。

当時、ヤマハには、「エレキギター通信講座」なんかがあり、級別にランクがあった。エレキギター1級が、最終目標だったが、今、思えば、あのウッドストックも終えたロックの時代に、相当に古~!という感じではあった。(私が、中学1年の頃だから、1972年頃だ。)

ひょっとしたら、この老人が、当時、このレコードのスタジオミュージシャンだったかも知れない、と思ったが、こんな仕事が、そんな歳でできるってのは、このホテルのオーナーかもしれない、と思ったものだ。

オーナーが、音楽好きで、趣味でやっているわけだ。
漫画だと、オーナーは、ホテル前を掃除していたりするわけだが、ここでは、バンドマンの姿に変え、客を観察しているのだろう。

そうこうしている内にクラブサンドが運ばれて来るが、「しまったあ~!」と思わず、心の叫びがあった。
またまた、あの一昨年、フロ~リダのディズニーランドでも体験した、大盛りサイズのクラブサンドだ!

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%80+%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

やはり、グアムは、アメ~リカだったか!
大体、日本での2人前を1人前と言っているわけだ。

やっぱり、と改めて思い出させてくれた、ポテトフライの異常な量の盛り合わせ。
これを朝から全部食べろと言うのか、、と。

一応、全部食べる。

バンドマン、しかしその正体は、オーナーかもしれない、というお爺さんもステージが終わったのか、シンセの片付けをしている。

何となく職業柄、同情心もあり、チップを渡す。

客は、自分たちと、向こうの方に黒人カップルがいるだけだったからだ。

1、2ドルのチップで、オーナーに気に入られて、ホテル代が只にでもなったらチップも安いもんである。

そのまま、午後5時からの結婚式会場の新郎新婦の泊まっている別のホテルの教会へ向かう。

セント・プロバス・ホーリー・チャペル

http://www.hilton-guam.com/wedding/index.html


そこまでは、タクシーを利用するのだが、ホテルにいるタクシー運転手が、韓国人の女性ドライバーで、グアムに住んで10年と言う。英語でしか会話できない。

そこで、「オレは沖縄から来た、グアムとの共通点は、米軍基地だな。ここが気に入ったから、残りの米軍もこちらに移転させてるようにしたから!」、と言ったら、NO,NO!と笑って遠慮した。

式が終わって、披露宴会場となるレストランの大部屋に移動。
新郎新婦、親族、すべていれて、15人程度。

実は、私も余興のために、自前で、”ギタレレ”を持って来た。
ヤマハのウクレレサイズのギターだ。
もう、何年も愛用している。

今や、ヤマハのギタレレのエレアコ・バージョンは、製造中止と言う事で、レアーなものになっているらしい。

通常の大きなギターを運ぶのが、面倒な時は、これでライブをしたりした。

ヤマハ関係の人がこれを見ていたら、ギタレレのコマーシャルには、ぜひ私を起用してもらいたい。
DVD、CDでの演奏もOKだ!

現地のレストランでの披露宴では、ギター弾きを頼んだ、と聞いていたので、待っていると、現地人の中年のフォークシンガーが来ていた。

ジョンデンバーやビートルズなんかをみんなの食事中に歌った。
最後は、長渕剛の「乾杯」を日本語で歌っていた。

日本語は、できそうもない感じの現地人だが、どことなく、農作業に従事する沖縄人風である。
アロハではなく、普段着風のポロシャツを着ていたからだ。

沖縄の南部あたりのサトウキビ畑にいそうな感じのフォークシンガーではある。

フォークシンガーの伴奏に合わせて、ちょっとギタレレでアドリブを入れたら、びっくりしていた。

これはイカン!とすぐに辞めた。

相手の仕事を取ってはいけないからだ。
フォークシンガーは、けっこう笑顔で喜んでいた。

食事中、フォークシンガーの余興が終わり、帰って行ったので、用意してあった古い電子ピアノの伴奏に合わせて、ギタレレで演奏する事にした。

ジャズの曲も弾いたら、ブライダル関係の現地の中年女性スタッフの一人が、騒ぎだし、カメラを持って、やたら、私を撮り始めた。

演奏中、何と、新郎新婦には、「この人は、有名な人でしょ!CDは、どこで手に入るの!」と言ったらしい。

新郎新婦は、「本を出しているとは聞いてますが、CDは、ちょっとわからない」と答えたらしい。

何やら、異常に興奮している。

演奏が終わってから、話かけて来た。

「ウクレレの演奏が素晴らしい!」と。

「あれは、ウクレレではない、ギタレレですよ!」と言うと、ギタレレを知らなかった。

どうも、ギタレレは、日本での発明品かもしれない。

自分の息子もギター弾いてます!と言って来た。

しかし、最初、ウクレレと思って、騒いでいた、という事は、ひょっとしてオレを誰かと勘違いしてないか、、と疑いを持った。

私の名前も聞いた事がある、と言ったそうだから。

そんなわけはないだろ!とつっこみを入れたくなったが、ウクレレで、グアム島でも有名と言えば、ひょっとして、ハワイの”ジェイク島袋”と間違えていないか!と推理した。

よし、このままジェイク島袋に成りすましてしまえと思ったが、とにかく、現地スタッフは、大喜びしていた。

どうやら、私は、グアム島でもバンドマンがやれるって事だな、と了解した。

披露宴も無事終了し、お開きとなった際、現地スタッフの女性が、どこでCDは手に入りますか?息子に聞かせたい!というので、インターネットを調べればわかりますよ、とテキトーなことを言っておいた。

「今度は、そちらが、招待してよ!」と言ったら、「喜んで!」と言っていた。

まあ、結婚式にふさわしい気分の良い体験である。
新郎新婦に取っても異国の地で、自慢の披露宴となっただろう。

翌日は、「恋人岬」(TWO LOVERS SPOT)行きのバスで、恋人岬見学。

http://guambeach.com/spot1-2.html

「恋人岬」と言えば、私の世代では、梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)の原作漫画
「愛と誠 http://ja.wikipedia.org/wiki/」でのハワイの伝説の岬ではある。

まさか、じゃあ、グアム島がパクったのか、と当初は思ったものだ。

何しろ、梶原氏には、「恋人岬(絵:牧美也子)」という特別の作品もあるようだ。

とりあえず、ただ、普通に名前を付けるよりは、思わせぶりな名前が、観光名所にはなる。
「グアム岬」では、あまり行く気にはならない。

沖縄にも「喜屋武(きゃん)岬」や、残波(ざんぱ)岬」、「辺戸(へど)岬」と言う観光名所があるが、「恋人岬」の名前には勝てない。

せめて「愛人岬」「ジゴロ岬」「結婚岬」とか言う名前だと、絶対オレは、ジゴロ岬に行きたい!、私は、結婚岬だわ!わしは、愛人岬じゃ!という者も出て来るはずだ。

調べて見ると、恋人岬は日本にもあった。

静岡県伊豆市土肥町とグアム島にある恋人岬は提携もしているという。

なんと新潟県柏崎市にもあるらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/恋人岬


こうなると、謎は、ハワイのダイアモンドヘッドにあるという「恋人岬」で、公式な情報は、これと言ってない。

夜は、マジックショーも見たりした。
シルクドソレイユの演出監督のプロデュースとのコラボだ。

人間が檻に入ったと思ったら、突然、中には、本物のトラがいたりするのだ!
アンビリーバボ~な連続だ!

そして、シルクド・ソレイユと同じ、パフォーマンスの数々。

http://guam-sandcastle.com/

帰る日には、「ハードロック・カフェ」というレストランに行く。(昔、大阪にもあったそうだ!)

http://www.gvb.com/hrc/

広いレストランのあちこちに歴代のロックギタリストやブルースギタリスト(BBキングなど)のパネル写真が飾ってあった。

トイレのドアの取っ手もギターの形をしていた。

店員もみな愛想がいい。

デブで、太い腕にタトゥの店員も愛想がいい。

やたらと前の日本女性二人組のテーブルに寄って行って、何か声を掛けている。

ハードロック・カフェスペシャルのステーキを注文して食べる。

全部食べたら、私くらいの小柄な身長だが、超デブな店員が、「これはまだスモールサイズだが、もっと大きいのもあるぞ!」と英語で言って来た。

どうやら、全身筋肉の私を同類のデブ族だと思ったらしい。
あっちの方が桁違いのデブではある。

前の女性は、二人とも注文した食事の半分だけしか食べきれずに残していた。
グアムでは、女子プロレスラー以外、一般の女性二人では、食事は、すべて、1人前でいいと思う。
けっこうな量である。

グアムから帰国し、関空に午後8時到着。

関空内のホテルにて、一泊。

ホテル側にファミマの24時間コンビニがあったので、つまみを買ってグアムまで持って行った焼酎を飲む。

ホテルでのテレビは、関西系の番組ばかりで、おお、関西では、こんなお笑い芸人まで冠番組を持っているのか!と満喫する。(いつもは、お正月くらいしか関西方面にやって来ない。)

翌日、午後12時に1年ぶりで、バリ島へ向け出発。

http://wikitravel.org/ja/バリ島

グアム島よりは、かなり安い金額で過ごせるから後半は、バリ島である。
(グアム島の1日分の滞在費が、バリ島の3日分になるか!)

機内7時間の旅。

バリ島は、テロ地区や海岸地区よりも山間部の芸術村、ウブド村へ。

去年と同じホテル。

http://www.bali-oh.com/hotel/ubud/kjm/detail.html

http://www.balibali.jp/hotels/ubud/kajanemua2.html

この辺は、まだ夏休みシーズンでないせいか、あまり日本人も見かけない。(ホテルには、何組かはいた。)

去年見かけた現地人スタッフも何人かいた。

ウブドの街の通りは、相変わらず、人と車がごった返し、5メートルほど歩く毎に、「タクシー?」「タクシー?」と、歩道に座り込んでいる白タク運転手からの声が掛かる。

それを無視したり、いちいち、手を振って断ったりする「技術」を磨かないとまともに歩けない。

街のあちこちにある両替所がある。
ある両替所の店先に座っているヨボヨボの老人が、「ペインティング、ペインティング」と言って、絵を売りつけて来る。自称、絵描きらしい。

これも無視して、両替。

ふっと後ろを見ると日本人らしい女性二人が、熱心にお爺さんの話を身振り手振りの日本語で聞いていた。
ようやく、絵を買って欲しい、という事がわかり、遠慮しつつ、辞退し、無事、脱出していた。

昼は、ラフティングをしたり、

http://www.balipochi.com/optional/activities/balirafting/balirafting.php


寺院や美術館巡りをしたり、

http://ww21.tiki.ne.jp/~access/bali/kankou_main_n05.html

夜は、ケチャダンスを見たり、

http://www.youtube.com/watch?v=VPMnT3YY5zE


ガムラン音楽&バリダンスを見たり、

http://www.youtube.com/watch?v=bhOmfePxL2s

ケチャやガムランが終わったら、いつものライブハウスへ。

http://www.jazzcafebali.com/index.html

去年見た、脅威のギタリスト&シンガーのバラワンは、出世して海外ツアーのせいか、バリにはいなかった。

演奏中のバラワンと、ソロで歌っている録画は見当たらないが、とりあえず、ハモって歌っているのと、ギターレッスンの映像があった。

http://www.youtube.com/watch?v=6gtW8PhahZs&NR=1


以下が、「ジャズ・カフェ」のハウスバンドの曜日毎の現在のライブ・スケジュール。

Tuesdays Smooth & Mellow Jazz Ito Kurdi Jazz Trio

Wednesdays Latin Grooves Buena Tierra

Thursdays Funky Fusion Vivafavela Band

Fridays Gospel, Soul, Jazz Aurora Quartet featuring Nancy Ponto

Saturdays Rhythm & Blues Bali Blues Band

Sundays Acoustic Jazz Gayatri Acoustic Trio


観戦できたのは、水曜日のラテンバンド、金曜日のゴスペルバンド、土曜日のリズム&ブルースバンド。

木曜日のファンキーフュージョンバンドは、去年見たから知っている。エリック・クラプトンなんかも歌うボーカル・バンドだ。

どれも、抜群な歌唱力と演奏力ではある。

観光芸の極地と言えるだろう。
すべてボーカル中心、という事が、インスト中心のジャズ系の私には、残念ではある。
楽器だけの演奏では、観光芸にならいないのか、と思う。

しかし、観光芸とは言え、単純なコピーバンドではない。
どれも、本物以上に上手い!と言う事もある。

店内は、白人客中心なので、従業員も含め、MCも、客とのやりとりは、すべて英語で行なっている所が、まさに、1972年復帰前の沖縄市コザの街のロックバンド、「紫」「コンディション・グリーン」の全盛期を思い出す。

(プチ自慢だが、亡くなった3歳下の友人のギタリストは、10代の頃、私を勝手に、「沖縄4大ギタリスト」に入れていた!その度に「えっ?3大ギタリストじゃなかったのか!」と言っていた。

他のギタリストは、全員、私より、4歳~10歳くらい歳上のロックギタリストではある。たぶん、当時は、私が沖縄で初めてのまとまなジャズ・ギタリストだったはずだ。一応、私だって10代は、ロック出身ではあるけど、、。今では、一番、まともでないジャズ・ギタリストになってしまったが、、。)

水曜日のラテンバンドのラスト曲は、白人客のリクエストで、ジプシーキングの「ボラーレ!」。これは、木曜日、別の店のロックバンドでもラストに歌っていたので、かなり白人の間でも流行っているようだ。
今、世界のお祭り騒ぎ曲は、「ボラーレ!」と言っていいだろう。

「ボラーレ」と言えば、吉本のグッさんを連想してしまうが、みんなあれくらいか、あれ以上の上手さで、歌うと発音もパーフェクトである。

そう考えると、グッさんは、世界に通用する芸人バンドマンではあるだろう。そもそも、日本のプロのシンガーでは、ちょっと、、飛び入りできないほどの歌の上手さが、バリ島のミュージシャンの特徴である。

英語で歌えて当たり前、という事で、一般の日本のシンガーの英語は、ちょっとこれは、意味不明ではあるから、白人からのブーイングが心配ではある。

まあ、日本のロック・バンド、「スーパーフライ」くらいの英語力と歌唱力があれば、現地でも大絶賛だろう。
古い人では、英語の歌が得意な尾崎紀世彦氏でも大絶賛だろう。(何かにつけ、尾崎氏は、毎回、出して来るけど、、、。)

本当に60年代、70年代のロックバンドは、沖縄でもこれくらいの実力があったのになあ、と、つくづく、観客が、米兵か、日本人観光客かの違いで、バンドの実力も変わって来る事がわかる。

やはり、客層が芸人を育てるわけだ。
お爺さん、お婆さんばかりでは、芸も枯れて行く。

枯れた芸は、枯れ芸で味もあるが、お客も演奏者も全員が枯れていては、なんだか不気味な光景ではある。

そもそも、日本で、英語で歌っても誰もわかるわけないから、何もかもが、甘くなってしまうのだろう。

レコーディング当日でさえ、現場にネイティブ外人がいないのが現状であるから、ますます英語の発音はいい加減だ。テレサ・テンの日本語の歌が、日本人の心にも響いたのは、テレサが、日本語を喋り、日本人に囲まれて暮らし、日本人だらけのレコーディング現場で、毎回、録音したからだろう。バリのミュージシャンも同じである。

この点から言えば、フィリピンのミュージシャンもバリ島のミュージシャンと同じではあるが、バリ島の方が、圧倒的な白人系の観光客である。

黒人は、ほとんど見かけなかった。しかし、土曜日のブルースバンドは、バリバリのリズム&ブルースバンドで、店は、白人客で、満席。

みんな軽快なファンクリズムに乗せて、ステージ前で、老人から若い娘まで踊り出していた。

大体、午後11時前の10時45分にはライブも終了するのだが、この日は、なかなか終わらず、ホテルの迎えの車を10時45分にしていたため、泣く泣く、途中から帰る事になる。

いつもは、終わってから、電話で、ホテルの送迎者を呼び出していた。(ウブド村内なら送迎はホテルのサービスでなのだ。ホテルから店までは、夜は、10分程度である。)

残念ではあるが、みんなが踊る中、店を出る時、店を仕切っている女性マネージャーに「今日で最後だった。また来年!」と告げると、驚いた様子を見せ、黙って、合掌のポーズをして頭を下げて見送った。

また、帽子も被らず、炎天下の街を2時間ほど歩き回って、日射病気味になってしまったりした。(その前に1時間ばかり、頭だけを出して、プールで泳ぎ回っていたせいもある。)

帰りの飛行機では、風邪気味でマスクをしていたら、インドネシア航空の現地フライト・アテンダントが、隣には、日本語を使うのに、私にだけは、終始、英語で話し掛けて来たのが可笑しかった。

(おそらく、また、メキシコ人かなんかに見えたのだろう。私は、たまに、外国の人からよく間違えられるので、よくある話ではある。客のいないライブハウスで、黒人トランペッターが、客の私のためにか、「ベサメムーチョ」を吹き始めた事もあった。チップを貰おうとしたのだろう。)

『FLIGHT ATTENDANAT:昔のstewardess(スチュワーデス):が、”sty(ブタ小屋)"、”ward(番人)"ーess(女性を表す接尾語)"から「ブタ小屋の女性番人」又は、”stiweard(家、家の一部)→ st?weard→ steward"「家の女番人」
と言った語源を持つため、段々、廃れて行ったらしい。(去年のバリ旅行でも「スチュワーデス」のたびにこのネタを出しているが、今回は、けっこう詳しい。)』


今回の巡礼の旅も短い時間ながら色んな事を体験できた。

バリ島と言うか、インドネシア全体は、仏教とヒンズー教が、混沌と共存する地域でもある。

これは、神様は色んな名前を持っているが、基本的には一つである、という所で、暗黙の了解をしている、という。
この考え方が、インドネシア全体を一つにしている、と寺院の喫茶店に置いてあった「BALI」という雑誌に書いてあった。

世の中は、あまり細かいことを言うと一つにならない、という事だろう。

バリ島、中でもウブドの村は、言うなれば商人(あきんど)の村と言えるか。

街の人は、何かしら観光客相手に物を売りつけようとするわけである。
5メートルばかりは、追いかけて来る。

お金=心である。

お金があると人はみんな親切ではある。

1万ルピアが、大体、二桁違いの100円程度だ。
10万ルピアで、ようやく千円くらいだ。

日本(浪速)の商人道とは、「商人は、しょせん、人のためにではなく、自分の利益のためだけに生きている人種でしかない。だからこそ、商売相手の客に対しては、真心を持って誠意を尽くさねばならない!」という。

ウブドには、観光客目当ての赤ん坊を抱えてた物乞いの若い女が歩道に座っていた。

こんなの隣の現地人が何とかするべきだ、とは思ったが、悲愴な感じはないから、何とかやってんだろう。
普通に観光客目当ての物乞いなんだろう。

白タク(無許可タクシー)のタクシーもそうだが、たまに、客に当たるから、ああやって、毎回、声を掛けて来たりするのだろう。

数打ちゃ当たる、である。

何日も何ヶ月も、客がいなければ、ああやって、諦めずに勧誘行為はしないだろう。

今回の旅で、人間が生きている残り少ない時間に何をすべきか、という事も、ようやくわかって来た。

帰って来てから、さっそく、思い切って、10年ほど、ダラダラと関わって来たサークル活動の一つを脱会。

惰性で関わっていたのものは、この際、整理すべきだ、と感じたからだ。

それは仕事も同じだろう。

意志、決意のない行動からは、やっぱり、何十年関わっても何も生まれないからだ。

10年も続けて、世の中に何らかの形で関われない修行は、全く意味がない。
それは、その修行自体が、組織自体が、指導者自体が、間違っているから、何の役にも立たないのだ。

そう決断すれば、新しく、自分だけの力で作り上げる気持ちもできる。

”鶏口となるも牛後となるなかれ”ということわざがある。

つまらない大きな組織の下に、奴隷のように命令されて生きるよりは、たとえ、小さな組織でも自分の力だけに頼らなくてはいけない状況で、危機感を持って、がんばる人生の方が有意義な生き方である、という意味だ。

(小さくとも、素早く前に進む、鶏のさらに前にある口先のようにどんどん進むこと、けっして、大きく安定はしていても、ノロノロ歩く牛の後ろから、さらにノロノロ歩くようなことはするな、というのが直訳か。)

もちろん、それだけの力を備えていないと何事も無謀な行為となるから、「自分を信じれば、夢はいつか実現する!」という成功者の言葉を鵜呑みにしてはいけないことわざでもある。

とりあえず、旅というのは、その後の生き方、行動が試されるのでなければ、行く意味がない、と思っている。

人生、旅が一番!、というプ~太郎的生き方ではない、旅から何かを学び、再び、帰って来た日常をさらに楽しくする事ができなくては意味がない。

帰って来た日常が、旅先より楽しい人生を作り上げないといけない、というプレッシャーも掛けないといけないわけだ。

その意味でも、こんな日常には帰りたくな~い!、となる日常は、不正解だ。
これでは、旅の勝ちで、また旅に出たい!と思うプ~太郎と同じメンタリティーの現実逃避感でもある。

もし、楽しくないと思う事があれば、あ~、これはつまらない事だったな、という日常の側を整理するしかない。

実際に、何の役にも立たず、発展性も何もない事に従事しているから、現実逃避感が生じて来るわけだ。

これは、人間関係も同じだ。
お互いが何の進化もない、何の感情的気持ちもない関係性だ。
頻繁に接してはいるが、お互い、何時亡くなっても平気な関係だ(現代社会は、これが、主流で、普通だろう)。

お互いを助け合う関係でもなく、ただ、惰性で関わっているだけの関係が日常の多くを占めているにも関わらず、そうした関係にさえ、淋しさから依存してしまい、そこから抜け出る事ができないわけである。

いつまでも、こうした、人間関係、組織にぶら下がっているわけにも行かない。

非日常の旅を体験するという事は、そういう事でないと大学生の卒業旅行、フリーターと旅を繰り返すプ~太郎のと変わりない。

自分自身、あるいは自国に何かを還元する事が、元来、外の世界を見る事の意味ではなかったか。

いやいや、旅は、ただ愉しめばいいんだよ、と言う一派もいるだろう。
しかし、これでは、人生は何の意味もないのではないか。

なぜなら、これが宇宙旅行ならどうか。
単なる外国ではない、地球外の旅行だ。

外国旅行ではなく、”外惑旅行”という事になるのか。

やがて、宇宙旅行も単なるストレス解消の旅行となる時代が来るだろうけど、今、宇宙旅行へ行って来て、地球では何の役にも立たず、何もしない者がいたらどうか。

これでは、人類に取っても、その人に取っても、全く、無駄な旅行である。
もしも、そんな人間が、帰って来た地球では、無気力となり、再び、宇宙へ行きたい、とだけ思い続けているとしたらどうか。

まさに、これが、浦島プ~太郎ではないか。

まあ、異論もあるだろうけど、私は、そんな風に旅をするとプレッシャーを感じるわけである。

旅は、日常を振り返る一つのバロメーターになる。

旅をして、初めて、つまらない日常を振り返る事で、面白く日々の暮らしを改善できる。

部屋の無用な品物を捨てて行く、スペース・クリアリングのように、いろんな無駄をクリアリングして行く事が次の人生へ向けての大事な時間の確保となる。

簡単に言えば、やっぱり、日々、燃えてやれる事だけを残して、人生を送りたいなあ、と思う。

さて、今年は、何をしようか。。

良い旅となったが、自粛気味の旅行記ではある。

周りに嫉妬深い人間ばかりを置いては、人は、何の行動を起こす気力も起きなくなる。
もっと、もっと、行動を羨ましがる人間たちに囲まれたいものである。

この嫉妬の時代の嫉妬深い人間たちは、どんどんクリアリングして行きたいと思う。

本を出しても一切、興味のない人間が、今の所、周りに、90パーセントばかりいるわけである。
そんな中にいては、人は、中々行動する楽しみも生まれないものである。

という事を考えながら、7月4日に無事、帰宅。


関連サイト『時々日記」:2010年5月22日(土):バリ島旅行記 後記:旅する心、PS:バリのゴム草履



PS:

旅行中、期待した琉球新報社への本の紹介掲載は、またしてもすっぽかされた、という話だ。
そもそも4月25日の自著の出版の広告を載せて欲しいと頼みに行ったのが始まりではある。
あれから大分経ってしまったか。
(沖縄タイムス社は、3日後の4月28日にすぐに掲載してくれた!)

どうやら、もっと偉い人に頼まなくては、いけないらしい。
(どなたか、琉球新報社の偉い人を知っていたらよろしくお願いします!。)

調子の良い若者をフロントに添えては、組織も信用を無くすだけである。
(本の紹介のために訪れた女性二人では、甘く見られたのだろうか。)

新聞社も商人道をもう少し学べば、売り上げも倍増するだろうとは思うが、どうも、自分たちは、商人ではない、と思っているから、売り上げも伸びないのではないか、と思う。


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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │旅行