2014年08月04日

誕生日の過ごし方、その3



誕生日なので、何か国民へ向けて声明を出しておかないといけない、と思ったが、よく考えたら、ただの平民なので、そんな義務はない。

しかし、誕生日だというのに、無視するのも白々しい。

この誕生日の祝い方には、様々な変遷があって、子供の頃は、親が祝ってくれたりするものだが、これが成人となると、その経験が”災い?”してか、世間に出たら祝ってくれる人がない、自分は孤独だ、という事を痛感する日となり、だんだん誕生日が嫌いになるのが一般のコースではある。

それが嫌なら暴走族出身者のように、一日も早く結婚して家族を持とう、という事になるのも、一つの対策ではある。

しかし、ここにアメリカ・インディアンの発想を導入すれば、誕生日は、周りの者に奢る日、となる。


アメリカ・インディアンの発想は、誕生日は、パーティーを自分で開き、そこに出席した人に、誕生日の者が、自らプレゼントを上げるのが、正しい誕生日に過ごし方になる。

人生は、人に何かを与える事で報われる、という発想だ。


そこへ、誕生日は、映画評論家、淀川長治氏の哲学、「誕生日は、お腹を痛めて自分を生んでくれた母親に感謝する日です!自分は、墓参りに行きます!」という永六輔氏が語る淀川長治氏のエピソードがある。

これは、4月10日を誕生日とする、永六輔氏と和田誠氏とさだまさし氏が、同じ誕生日の大先輩、淀川長治氏を誕生パーティーへ誘った際のエピソードだ。



*永六輔、誕生日エピソード:


http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2008/08/nozawa22_2.html




*淀川長治:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D%E9%95%B7%E6%B2%BB


*永六輔:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%AD%E8%BC%94


*和田誠:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%AA%A0



*さだまさし:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97




こうした考えをさらに超越した“思想”が、バンドマンからの転身も多い日本の葬式仏教と一線を画する初期仏教長老のスマナサーラ長老の説く、仏教的な誕生日の考え方だ。

スマナサーラ長老は、独身をつらぬく行者でもある。


*アルボムッレ・スマナサーラ:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%A0%E3%83%83%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9



仏教的には、そもそも人間は、「苦」の中から生まれて来るもので、赤ん坊にとって「生」は、望んでもいないのに、逆らえず生まれてしまうもので、赤ん坊にとっては、お産という「苦」から人生が始まっている、という。

人間は、「生」を受けたと同時に、すでに「老い」が始まり、日々、「死」へ向かって行くもので、この”宿命”から誰も逃れる事ができない。

したがい、人間にとっての本当の不幸は、この「老い」の否定であり、「自分だけは年を取りたくない」「自分だけは死にたくない」と逆らう事自体が、そもそもの不幸である、としている。

それに「誕生」は、自分が生まれたその日だけではない、という。

世の中は、ひたすら変化するだけのもので、それが「無常」の世界ではある。

したがい、世の中は、日々、一刻、一刻、何かが「誕生」している、という。

自分にとっての「変化」は、何かが「誕生」したことでもある。

それが、良い事か、悪い事かも関係なく、変化は、無差別に、自分という人間を変化させ続ける。

たとえば、ガンなどの病気になった人は、これは、自分の中からガンという病気が「誕生」したわけである。

したがい、自分がこの世に生を受けた「誕生日」であれ、それを幸福と見るのは、周りの人たちで、自分という人間からすると、「生」を受けた時点で、「死」へ向かう日々がスタートする事でもあり、また、お産も「苦痛」なので、誕生するという事は、「苦」の始まりでしかない、という。

こうした「苦」だけの人生をいかに「知恵」で切り抜けるか、というのが、お釈迦様の「思想」で、それが“仏教”であるわけだ。


なるほど。


何も、誕生日だけが、「誕生」ではなく、そもそも「誕生」自体、良い事ばかりでなく、悪いことも「誕生」であるわけだ。


人間は生まれた瞬間から、「苦」であり、日々「苦」である“老化”が始まり、刻々と“死”へ向かって行く生き物でしかない。


そうだとすると、一般の人間が、「ああ、また孤独な誕生日か」なんて考えている事は、当たり前中の当たり前だ、という事になる、当然の「苦」であるし、その程度の「苦」で満足(?)している場合ではない、というわけだ。

明日、「あなたはガンです。余命3ヶ月です。」と宣告されたら、それは、「ガン」の誕生であるから、「誕生」自体は、そもそも「喜ばしい」事でもない、という考え方だ。

だからといって「祈る」という事で“逃げる”ことでは、問題は何も解決しない、と初期仏教は説く。

そもそも“祈る”暇があったら、ちゃんと勉強して努力せぇ~!というのが、本来のブッダが説いた教えだという。

お経なんか唱えている時間があったら、ちゃんと問題解決の行動に出よ!という教えだ。

なるほど。

祈る事を先導すると、確かに坊さんは丸儲けになる。

初期仏教では、そんな時間があったら、問題解決となる“行動”をちゃんとやりなさい!という事になるが、そもそも宗教というものは、人類の“誕生と死”のセレブレーションを請け負う“利権”を巡っての“抗争”だ。

(”仏教”は、本来、宗教ではない!お釈迦様の哲学、思想を述べているもの、と初期仏教のスマナサーラ長老は主張する。)

特に、人間として生まれたら、必ず、“葬式”は、確約されているから、生を受けた赤ん坊の段階から、最後の葬式まで“予約”受付け(?)ができるシステムになっている。

一つの宗派に所属する、という事はそういう事だ。(仏教葬式VSキリスト教葬式の抗争もある。結婚式もある!)

だから、葬式の“掛け持ち”ができる、ということは、商売繁盛でもある。

商売繁盛なのに、神妙な顔をしなくてはいけない、という商売は、何も葬式だけじゃない。

風邪の患者で溢れた病院の医者もそうだし、通常の会社員でも同じじゃないかとは思う。


そんなわけで、「誕生日」は、あの生まれた時の「苦しみ」を思い出して、今、一度、生きている、という事は、「苦」そのものであり、自分が、どんどん「老化」し、「死」へ向かっているんだ、という事を自覚する、という「苦痛誕生記念日」という事になるのではないか。


しかし、今年は、「リズム」や「ジャズ」に関する本も初めて出したわけだが、これを批判する、これまでの日本の若者を傲慢に洗脳支配し、偉そうに言うわりには、ちっとも世界に通用しなかった団塊の世代の”おっさん”たちよりは、長生きしたい、とは思う。

最近は、この世代に加え、私と団塊の世代の中間辺り(“団塊付属世代”と命名しておこう。現在、55歳以上から64歳あたりか。65歳~69歳が団塊の世代になる)からの嫉妬心も激しいので、彼らよりは、長生きしたい。

あと10年ばかりすれば、みんな“老人”扱いでいいのだが、そうした年代からすると、老人になる前の“断末魔の嫉妬心”が激しさを増すばかりで、彼らからすると自分でもどうしょうもないんだろう。

最近は、“キチガイに刃物”ではなく、“キチガイにインターネット”の社会でもある。
学生時代のウップンをインターネットで晴らすわけだ。

これは、明らかに、“老化現象”の始まりではある。

昔の“中年老人(?)”は、家族相手に、“けしからん!”とだけ言っておればいいだけだったのだが、インターネット社会では、そういう“老化”した人たちの“拡声器”になってしまった。

何の裏付けもない自分の意見を“正論”だと思い込んでしまっているわけで、すべての発端が、こうした立派な“自分”から発せられる、と信じ込んでいる、わけだから、これは、一種の老化に伴うインターネット中毒症だ。

やたらと匿名で、無差別に悪評を書きまくる人たちもそうだが、ボケているので、実名で批評もどきをしても論理的な飛躍は変わらない。

論理の根拠が、すべて”俺様が思った事は正しい!”から始まっている論法だ。

たまに、批評するわりには、「オレは、頭は悪いけどよぉ~」なんて防御も入れていたりするが、そもそも「頭が悪い」ということを強調したいのなら、“自分”という人間の“感覚”だけを論拠として批評はすべきではない。


この辺の事を私のホームページ「歯医者はなぜウエスモンゴメリーが好きか? (高学歴者の嗜好品) 」(2000年 3月26日 土曜日)に詳しい。


14年ぶりに読んでみたりすると、改めて彼らの生態がよくわかるかもしれない。


*歯医者はなぜウエスモンゴメリーが好きか? (高学歴者の嗜好品):


http://www.tomoyosejazz.com/wes.html


そもそも私には、こうした事を書き続けたホームページがある。

彼らは、虎視眈々とその”恨み”から“口撃”の機会を狙っていたのだろう。


*著者ホームページ(2000年~):


http://www.tomoyosejazz.com/



というわけで、日本国民の本当の発展は、彼らが、この世から去った、あるいは、老化のため、“世の中に何としても出たい!”という気力が失せた10年後、20年後、という事になるだろう。

それまでは、イチローや上原ひろみ、と言った“天才プレーヤー”たちが、1人、世界で活躍する時代が続くわけである。


しかし、そもそも、彼らより長生きしたい、という事を自分の誕生日に考える事自体が、初期仏教の教えに反し、すでに、救われない「苦」をさらに強化している、という事にもつながる、というわけだから、何事も因果応報ではある。



HAPPY BIRTHDAY TO ME!



今日からは、コント55号(今度55歳)、という事になる。



*コント55号:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%8855%E5%8F%B7
















PS:


7月28日~8月3日、関西奈良方面へ旅をして、餃子の王将に行く。

商売上手なのか、人気の白米とチキンのから揚げと餃子の三つが組み合わさったセットがないので、ラーメン・チャーハンセット、餃子1人前付に、さらに餃子1人前を追加し、チキンのから揚げを単品で取った。

白米は断念。

食べ過ぎて、動けなくなった。



*餃子の王将桜井店:

http://loco.yahoo.co.jp/place/g-u-yWEKVSNyQ/








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