2012年12月11日

続、vs 国家権力と、ついでの洗脳教育話とオスプレイ



前回のVS国家権力話は、都会の人間は、スクーターにも乗らず、電車生活ばかりで、警察とは縁のない生活を送っているので、誰も興味がないようだ。

そんな状況を見越してか、地方でかなりの”荒稼ぎ”をしているのではないか、と思う節がある。

特に、電車がない沖縄は、昔から、車社会で、車がないとどこにも行けない。

親子で、一家に2台くらいは常識だ。

(那覇市限定のモノレールは、2003年(平成15年)8月10日 沖縄都市モノレール線 那覇空港 - 首里間が始まり。)

オスプレイに反対!と車で繰り出した家族連れの市民たちに対して、「ここは駐車違反だ、開けろ!開けないと窓ガラスを割るぞ!」という警察軍団がいたら、どう思うか。

泣き叫ぶ、子供たち。

ま、まさに、国家を守るためには、暴力も辞さない、という、その正体見たり!、ではある。(テレビや都会では見られないだろう!)

この裏に、何か、巨大な”国家資金徴収システム”が隠されているのではないか、と思うのだが、これは、オモテの徴収システムである”消費税”問題なんかどうでも良いくらいのアンタッチャブルな世界かもしれない。

そもそも、一日の罰金料金の4千円からして、消費税に換算すれば、一人で、何百人分の消費税を払っている事にならないか。

100円の買い物をしたら、消費税5%の5円だから、4千円では、缶コーヒー、800個分になる。(15%になれば、15円だから、約266・6個分で徴収できる。)

一人で、一度に4千円の消費税の買い物、ということになると、現在の5%で計算すると、8万円の商品になるのか。(15%だと、大体、2万6千666円くらいの買い物で徴収できる。)

駐車違反やスピード違反なんか、あっと言う間に2万~3万円という罰金が動く。

スピード違反や駐車違反なんか、毎日、やろうと思えば、いくらでも発見できるし、まさに国家に取っては、お金の出る”打出の小槌”のようなものだ。

2万円くらいの罰金だと、5%の消費税だから40万円くらいの買い物をした事になる。(15%だと約13万3千333円くらいの買い物で徴収できる。)

この無限の徴収ができる裏の世界に比べたら、消費税なんか、国民を騙すカモフラージュのようなものではないか、と思うほどだが、この事に関して、だ~れも関心がないのが残念である。

だから、みんなスクーターで、しょーもない事で捕まり、罰金されてみたらいいのだが、これは万人が経験できる事ではない。

う~む、それにしても、こんな奇妙な比較計算をした者は、世界でも私が始めてだと思う。

そんな事、気にならない、という者に、再度強調すると、警察は、こればかりではな~い!、と前回指摘したはずだ。

前回の保険屋騒動での、電話口での、一人の警官の横柄な応対から、さらには、独自の判断による市民に対しての門前払い、という”権限”は、一体全体、どういう深層心理から来るのだろうか。

市民を自分の”下僕”扱いしているからこそ、できるわけである。

世間では、自衛隊云々、と言って騒いではいるが、裏の世界では、すでに警察が巨大な力を持って、経済から(不景気にする活動)、市民コントロールまで、秘かに暗躍しているわけである。

有事の際の警察の激変ぶりは、映画やドラマでも描かれる通りである。

これが、”オスプレイ島”と私が呼んでいる沖縄で密かに実施されているわけだ。

、、というような事をいくら言っても、「喧嘩はいけませんよ。みんな仲良くしましょう。」という、根っからの奴隷体質として育てられた、モミ手世代には通用しない。

闘わない世代だ。

とにかく、仕事をくれて、有名にしてくれる人だけが、正しい、という価値観だ。

だから、彼等がいくら活躍しても、現状は、何も変わらない。

彼等自身も、実際は、何も変わってはいない。

毎日、飲めや、歌えやのどんちゃん騒ぎで、そのまま、老いて、仕事がなくなって、お金もなくなって、最後には、人知れず、いつのまにか亡くなる、というのが、バンドマンの人生ではある。

もちろん、かつての仕事仲間のために泣く、という感性自体が、欠落しているが(もちろん、愛想は普段からみんな良い)、葬式は、一応は、音楽葬とはなる。

しかし、まあ、これは、バンドマンに限らず、同業者、同僚という者は、元来、ライバルでもあるから、一般の人でも同様な反応ではないか。

「部長が昨日、亡くなったってよ!」

「え~、一昨日までは元気だったのにねぇ~!」

、、といった会話程度ではないか。

同僚でも同じようなものじゃないか。

「**さんが、昨日、亡くなったらしいよ!」

「え~、私、お金貸してたのにぃ~!」

、、というような程度ではないか。

やっぱり、亡くなって本当に悲しい、と言われるのは、森光子クラスではないか。

後輩のために、いろいろ世話をした、という苦労人でないといけない。

貧乏だと、人に与える事を一切せず、人から何かをせびる事だけを覚えるから、死んでも、何とも思われない。

というわけで、この”オスプレイ島”は、今後、50年は、このままだ。

闘える人間がいなくなってしまったからだ。

40代以下の若者(?)は、みんな、そういう仲良し教育を受けてしまったのだろう。

(実際は、本当の仲良しはいないのに、、、。)

これは、近年の日本社会の特徴でもあるが、なぜか、年々、どんどん色んな分野の能力が退化している。

昔の偉人たちは、びっくりするくらい世界と闘えた(明治時代からだ!)。

(イチローは、もちろん特別な戦士である。現状から言えば、みんなと違うので、”時代遅れ”という事になる。)

何か、昔の人と違って、物事に対する完成度の基準値が低すぎる、という感じだ。

世の中をあまりにも知らなさすぎではないか、と思うのだが、そういう風に教育されて育ってしまったのだから、しょうがない。

おそらく、テレビや雑誌に洗脳され過ぎたんじゃないか、と思う。

能力自体は、何も変わらないのに、自分の回りを電化製品で固めて、電脳人間を目指すわけだが、いくら機械の力を借りても、元々が、大した事がなければ、ガンダムも弱いんじゃないか。(ガンダム世代じゃないので、よくわからないけど、、。)

そんなわけで、一人でも多く、ちゃんと国家やNHKと闘える若者の育成が望まれるのであるが、”教育”というのは、すべて国家のために存在する。

国家は、この辺、たくみなメソッドを作り上げ、国家に従順な人間育成のシステムを作り上げた。

こうしたねりにねったメソッドを実施しているわけだから、この流れは誰にも止められない。

それにしても、昔の若者は、ずいぶんと国家と闘ったんだなあ、という印象はある。

学校教育に関しては、最近の指摘で言えば、児童のうちから、学校で教室の清掃をさせる事自体からして、軍隊教育の実施を秘かに行っている、という。

これが、アメ~リカなら、清掃の業者が行うべき事を、日本は、教師にさせると”清掃手当”を出さなくてはいけないし、清掃業者に依頼するのもお金がいる。

そこで、タダで清掃してくれる子供たちを使った方がいい、というわけで始まった、というわけだ。

その大義名分として、”人間教育”、”労働する喜びを知る”としている、というのだが、もし、生徒が教室の清掃をする事で、人間教育になるのなら、毎日、どこかの清掃をしている本業の清掃員は、もっと成功しているのではないか。

児童に教室の清掃をさせると、経費が掛からないから、そういう大義名分を掲げて、させている、という指摘だ。

そもそも、軍隊の教育は、トイレの清掃から、だと言う。

そういう事から始めて、上司の命令には逆らえない!という事を叩き込むらしい。

そんな事を考えていると、最近の100人以上の学生の”一糸乱れぬ団体行進”の美学を説く教育も、北朝鮮の兵士の行進とどう違うのか、と私なんかは、思ってしまう。

10人程度の団体行動なら、まだ許容範囲ではあるが、それが、50人、100人となって行くと、こんなの軍隊じゃないか、と思ってしまうわけだ。

たとえ100人いても、それぞれが、個々、バラバラに動く”美しさ”というのも、ちゃんとあるはずだ。

(サッカーだってそうじゃないか?11人のバラバラ動きの美学じゃないか。)

この頃の怪しげな社会状況は、まず、国家が、あれやこれやの法律を掲げて市民を規制し、怯えさせる。

その一方で、民間教育のレベルでは、”一糸乱れぬ団体行進”の感動を説くわけだ。

実に怪しげな市民コントロールの戦略ではないか。

えっ?ここまで話しても、これも、そう思わない!

それじゃあ、もう、手遅れの重症じゃないか。

だったら北朝鮮で暮らしても平気なはずだ。

こうした団体行動のどこが、美しいのか、さっぱりわからない。

オーケストラでも、サンラ・アーケストラから、ギル・エバンス・オーケストラ、デューク・エリントン・オーケストラのような、何か、個々のルーズさを保ちながら、全員で、一つの事をやっている事の方が、感動的で、美しいなあ、と思う。

そこには、ちゃんと、個人、個人の名前があり、個性もあるからである。

国家にとって、個々の兵士の名前は、どうでもよいものである、。

今回は、別の話をするつもりだったが、たまたま、こうなってしまったが、まだまだ、言いたい事の100分の1程度だ。

12月は、やたらと昼間っからパトロール中のパトカーを見る。

みんな、”書き入れ時”だ。




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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │教育メディア・リテラシー問題