2012年07月26日

傲慢太郎伝説

前回の「いじめ論」を書いてから、いろいろな人に出会ったが、どれも「加藤諦三は、うさん臭くて好きじゃない」とか、「アメリカ・インディアンの話って嘘だったんだよ~」と言った感想でしかない。

実際、本を読めばわかるのだが、そのインディアンの本の著者を巡っての調査の経緯も巻末にあったりする。

いずれにせよ、否定者のほとんどは、氏の本でもよく指摘されている「傲慢」な種族だ。(小林よしのり氏の「ゴーマニズム」は意図的なものだからここでの無意識レベルの傲慢さとは区別しておく。念のため。)

いくら否定しようが、本人が傲慢かそうでないかは、基本的に、どれほど人から慕われているか、という事にもつながる。

この点では、ワンマン社長と言った経営者の勘違いも多い。

部下が何千人いようが、それは「慕われて」いるとばかりは言えない。

部下は、生活のため「仕方なく」その上司や社長、経営者に従っているに過ぎなかったりする場合もあるからだ。

彼らから生活のための「給料」を貰うために従順な奴隷となっているにすぎない場合があるわけだ。

だから、できるだけ私生活では、そうした上司や部下と関わりを持たないようにしていたりする者も多いのだが、そうした部下軍団に取って、一番、嫌がるのが、会社関係の飲み会、という事になるらしい。

傲慢、ワンマン系の経営者や上司が現れるだけで、場の雰囲気も盛り上がらず、結局は、上司の”演説”で終わったりする会となる。

そんな飲み会の実情を撮影している番組があった。

テレビでは、従業員5、6人程度の会社ではあるが、こうしたワンマン社長の主催による毎月の”飲み会”模様が放送されていて、やっぱり、社長の独演会状態で、男女の社員たちは、ただ黙って、すすまないお酒を飲んでいた。

しかし、こうしたワンマン社長や上司ではあっても、その会社を維持する能力に長けている場合は、それなりの”尊敬”も勝ち得るわけだ。

今の時代に会社や店を維持できる才覚があるだけでも賞賛には値いする。

だが、いったん、その”超能力”を失えば、あとに残るのは、”人間性”だけである。

その上司と、つきあいたいか、つきあいたくないか、、だ。

しかし、こうした部下に対しての傲慢な態度も、本当にその部下のために、という愛のムチなら、意外に、部下に好かれている上司もいる。

これもまた”似て非なるもの”で、両者は、しっかりと区別を付けないといけないだろう。

見分けるのは簡単だ。

そういう上司は、何かの際は、部下から相談を受けたりするわけだ。

まあ、良い上司のイメージとして、”明石家さんま”は、どうか。

後輩芸人ならず先輩芸人にもダメ出しをする、”小言”の多いタイプの人間だが、だからと言って、さんま氏が、先輩、後輩から疎んじられている、かとなるとなんともいえない。

まあ、この間の27時間テレビでは、タモリ氏が、「テンションの高い奴は苦手だ!」と、発言し、明石家さんまが、「なんでもっと早くから言わないんだ!今まで騙されていた!」と怒っていたが、あれはあれで面白いから本望だろう。

さんまエピソードとしては、飛行機だったか、新幹線だったか、移動中、少しでも眠ろうとしたら、同席していた”さんま師匠”がずっと横で話し続けていて、うるさかった!という雨上がりの宮迫の証言もある。

(また、この手の若手芸人の苦情も明石家氏には、多いではある。”ホンマでっか”の沖縄ロケで、寝ていないブラックマヨネーズが深夜、移動中のバスで寝ようとしたら、同乗している明石家氏が、またまたずっと喋り続けていて、さすがにウトウトしたら、歌を歌いだした、という苦情だった。)

まあ、いろいろ問題はあるだろうが、心底みんなが疎んじてわけではないだろう。

そもそも、そういう事を本人に向かって若手芸人が言えるわけだから。

というわけで、会社でも傲慢な上司は、家庭でも当然、ワンマン、傲慢である。

彼らにとっての部下への重圧の大義名分は、”おまえのために言っている”というわけであるが、そのほとんどは、客観的に見ても”感情的”、”突発的”である。

その多くは、やはり、一方通行の”直列思考”の怒りである。

彼らには、そもそも”並列思考”の能力がない。

もの事を多角的に見る事ができないから、すべては、一元的になり、そこから”権威主義”も生まれる。

有名だから、とか、偉い地位のようだから、という事にこだわるわけだ。

インディアン風情に学ぶ事は断じてない!、というわけだろう。

(「アメリカ・インディアンの教え」の続編のあとがきには、こればっかりはインディアンから学べない、インディアンの子供の残忍的な点も上げている。子供たちが、弱い動物をいじめる、と言った点だ。それでもトータルで見ると素晴らしい、という結論の末に本は、紹介されている。)

直列思考では、一度にひとつの事しかできないから、何事も、自分の決められた通りに運ばないと不愉快になる。

もちろん、大切な仕事のプロジェクトなら、コンサートのように、台本通りの進行は大切だが、それでも基本的には”臨機応変”さが大事だ。

ほとんど自分の悪口としか思えないような事しか書いていない加藤氏の著作は、彼らの間では、恐怖で、非難の的だろう。

実際、部下や家族に読まれては大変な事になる上司や父親ばかりだろう。

”あっ!これってうちの上司だ!、父親だ!母親だ!”と気づかれては大変だ。

もしも、本当の”傲慢”でないなら、もっと部下や家族からも慕われているはずだ。

私生活でも頼りとされ、相談事も多くあるだろう。

ちゃんと、この人は、自分のためを思って、注意してくれているんだ、と愛情を受け止めている事になる。

だから、いくら怒って注意しても、嫌われる事がない。

ところが世の中は、父親がいない時が、家族の団欒時であったり、上司のいない時が、盛り上がる飲み会となる。

会社を定年退職した翌年から部下たちからの年賀状も減る一方で、2,3年もすれば、部下たちからも”過去の人”として忘れ去られる。

すべては、その”人望のなさ”である。

父親の指図した通りの道を従順に進んだ子供は、ちょっとした事ですぐに挫折する。

すべてが、両親を喜ばせるためだけに、頑張るわけだから、目的を達成して、成功しても、虚しさだけが残る。

(スター芸能人、歌手にも多い。)

そういう私は、そもそも人望はない。

だから、相談事もあまり受ける機会がない。

また、真面目に答えても、その通り、やる者もいないから、無駄になる。

現に、いくら本を紹介しても、ちゃんと読んで実践している者は稀だから、やっぱり社会から脱落して行く。

どう考えても、仕事上のパソコン本や、商品説明本、はたまた、正義論を振りかざしやすい不毛な政治話しか読んでいない多忙なエリート族が、そういう事を知っているとは思えない。

結局のところ、耳学問で、知っているふりをする。

最近は、実際に名作文学小説なんかを読んで、心を揺さぶられたこともない、というのに、読んだふりをするためのあらすじ本も出ている。

何事も知っているふり、、だから、実践が伴わない。

だけど、「こんな人でないといけない」という”知識”だけは付いてしまうから、プライドだけは、増長される。

実践が伴わないから、自分が思っている”理想の自分”と”現実の自分”との間に、正反対のギャップがある。

ウンチク本ばかり読んでいるから、だんだん、プライドも高くなって行くのだが、ところが、潜在意識では、自分の力は知っている。

だから、試されたり、実演する事には臆病になる。

臆病になっているから、うまい具合にこれを避ける理由を作り出し、自分を納得させる。

”あんな事をしても意味がない”である。

だから、困難が来ると、なんでもすぐに逃げ出す。

そして、”あの葡萄はすっぱい”となる。

(もちろん、本当にどうする事もできない事は、”あの葡萄はすっぱい”と諦めてもいいだろう。そういえば、私の生徒に、理想の女性は、”藤原紀香”、という者がいて、婚期を逃し中、という40代の者がいた!)

そうしたプライドが増長されるのが怖いので、私の場合は、とりあえず、何でも実践から入る事にして、取説は、なるべく、最後に仕方なく読むようにはしている。(もちろん、”核ミサイル発射”のボタンは、取説を読んでからにする。)

というわけで、今週、遭遇した傲慢人間は、わずかな祝儀を惜しみ、「自分たち家族は、今、喪に服しているから!」と逃げ回る、傲慢バンドマン・ピアニストだ。

知り合いの婆さんが三人ばかり亡くなった、という理由で、20年ばかり前には、自分の二人の子供たちへは、出産祝い金として、一万円ばかり貰ったはずであるが、自分が、出す側になると「喪に服している!」という理由を上げて、びた一文出さないわけである。

しかも、その人は、毎月、8千円の援助金をその人から受けていて、これまでには、ざっと50万円近く援助して貰っているのだ。

それでも、この辺、運気のない傲慢な人は、さすが、としか言い様のないほど、自分勝手な都合を付けるわけである。

へぇ~、よくもまあ、そうやって生きていけるなあ、とは思うが、老人を騙す事に掛けては才覚があり、老人連合から見ると、立派な先生様に見える。

これもインディアンの教え「幸福な人は、喜びを大きくして、悲しみを忘れます」に反する。

面白いもので、彼の特技があって、それが、”関わった若者をすべてダメにする”、というものだ。

とにかく、人を育てる事ができない。

関わる者は、みんなダメ人間になる。

好んで、そういう者ばかりを集めているのか、と思ってはいたが、どうも、傲慢さを発揮するには、自分に対して、従順な奴隷体質の者ばかりを無意識に求めるようだ。

そうでないと、誰も彼に依存してくれないわけだ。

傲慢な者は、とにかく、相手が自分に”依存”してくれないと不機嫌になる。

だから、お金を”貸して”くれる者に感謝する事はない。

逆にお金を”借りに来る者”を好み、こうした優越感を満たしてくれる者を可愛がる、というしくみだ。

だから、周りに優秀な者がいては困るわけだ。

優秀な者がいたら、自分に依存してくれないからである。

そういう性格だから、当然、他人の出世は恨む。

嫉妬する。

あいつがCDを出したって!

あいつが本を出したって!

自分自身が、”他人より優れた人になりたい”という願望であるから、自分より優れた部下はいらないわけだ。

当然、この影響は、子供たちにも影響する。

傲慢な親の子供は、親に従順で、すべてが親の言いなりとなるのだが、潜在意識のどこかに、父親の望むように”無能”でなければ、父親に愛されない、という深層心理があるためか、何をさせても全うできない。

そのたびに、父親から、今度はあれをやれ、今度はあれだ!となるが、そもそもが、自分の周りを”無能”で固めないと自分を敬ってくれないわけだから、これは矛盾である。

基本的に”無能”で、父親に依存する子供でないと愛されない、と子供の脳に埋め込まれているわけなのに、あれこれ指図して、進路を決めても成功するわけがない。

「自分が有能になったら、父親から愛されない!」という恐怖心を抱くチップが、子供の脳に埋め込まれているわけだ。

これは、会社でも同じだろう。

「ああ、この上司より有能に振舞うと、絶対嫌われるなあ」という傲慢上司がいるはずだ。

だから、処世術として、無能を演じないといけない。

先輩に勝ってはいけない、、というリミッターが働くから、そうした人の下では、子供も部下も成長、進化する事がない。

、、、というしくみがあるから、世の中は、いかに、無能な父親の下に、優秀な子供が存在するか!

というわけで、私の周りは、傲慢人間にあふれているから、誰もその人の下では、成長する事がない。

その点、私自身は、ラッキーである。

私は、生徒から月謝を巻き上げ、指導する側ではある。

部下に給料を与える側ではない。

だから、生徒が私の傲慢さに我慢できなければ、退会すればいいだけだ。

さらに厳しい事に、生徒とは、ほとんどが、マンツーマン、1対1でのレッスンになる。

集団だと、先生の傲慢さは、薄められるから、調査にならない。

こうした環境で、通算25年以上も来たわけだから、傲慢大会では、まだまだ下位の方ではある、と思う。

もしも、自分が傲慢でないと言い張るなら、「これから高額な月謝をオレに払いなさい!」と部下や従業員に言ってみればいいだろう。

何でも、安くして、只同然の価格で行うと、人は、集まるものではある。

それを”人望”と勘違いしてはいけない。

そもそも、人間は、歳とともに、傲慢そのものに自然になって行く生き物だから、この傲慢からの解脱は、よほどの修行をしないと成し得ない。

”わがまま”と”傲慢”の違いは、”わがまま”は、自分の要求をただ強引に押し通すものなのだが、”傲慢”は、そのわがままが、”正義”と思っているところだ。

”正義”だから、タチが悪いわけだ。

その結果、その父親も上司も、自分の事を”良い人間”だと思っている。

もちろん、彼らに”依存”している、”能力があってはいけない”人たちの間では、「はい、ご主人様は、大変、良い人間でございまする!」としか言い様はない。

私が、彼らを好きな理由は、ただひとつ。

彼らと正反対の事をやれば、何事も成功する、という博奕(ばくち)打ち、ギャンブラーの発想だ。

博奕打ちは、どうしていいかわからない時には、負けが込んでいる、運のない奴をチラリと見て、すべてその正反対の側に賭ける、という。

この方式で、スランプを脱する、わけだ。

”反面教師”というよりも、”不運のサンプル”と言った方がいいくらい、傲慢人間には運がなく、あるのは、虚栄心だけだ、と言うが、彼らは、常に、自分の”餌食”となる弱者を求めている。

観察していると収穫も多く、面白いが、NO!と言えない弱者の立場の者たちは、彼らの”奴隷”となるしか、生きる道はない。

部下や子供、生徒の人生を台無しにする、という点から、辛辣に言えば、”人として”の勉強が、不勉強極まりない種族ではある。

というわけだが、この頃の深夜勤務は眠いので、この辺で、、、サイナラ、サイナラ、サイナラ。。



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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │教育