2011年12月31日
悲しみの「同調」の仕事、自己管理の3つの法則、"私"と"I"
昨夜は、呑みに出てしまし、ついにブログ連続更新が途絶えた。
それじゃあと、カウントダウン・ブログという事にしよう。
1回寝ないと新年の気分も出ないので、大晦日もまだ長い。
前回、「人生はトロッコに乗ったようなもの」と、発見したので、誰か言っていたら、それは、このブログが発祥だ。
実際、何年か前に、4D映像、10分体験で、トロッコに乗せられて、インディージョーンズにもあった、危険な冒険のトロッコの旅をさせられた経験がどこかにあったから、「トロッコ」が出て来たのだろう。
前回、テレビで「3.11を忘れない」を一日中やっていたかと思えば、昨日は、また別の局で、似たような番組を延々としていた。
実際に悲しい体験をした時の癒しになる回りの人の態度が脳科学的にあるらしい。
色んなケースの悲しい体験があるはずだが、基本的には、回りの当事者でない人間が、共に「悲しむ」という行為が良いそうだ。
これは、武田鉄矢氏の番組「週刊鉄学」でも同様な指摘で、取り上げていた。
「週刊鉄学アンコール」(12/18(日)午前11時~ 12/20(火)夜9時~)
*「悲しみを忘れないで」
諸富祥彦(明治大学教授、心理カウンセラー)
ここでは、昔は、「貧乏自慢大会」があって、それが、貧乏な人間を癒していた、という。
武田氏は、「兄弟が多いのに、履物がないので、一人一人ずつしか遊びに出られなかった、と、子供時代を自慢しているおばさんがいた。」という笑い話のような貧乏自慢を紹介していた。
これは、「苦労人大会」も同じで、そうした会話によって実際の体験が癒されて行くという。
脳科学的には、こうした「同情」から、「同調」が起こるという。
回りの人は、話を聞いているだけで、実際の「当事者」ではない。
それがいいらしい。
当事者でないから、たまに、テレビを見たりして、お笑い番組があれば、ついつい笑ったりもする。
それを見て、そうした回りの人の日常に対しての「明るさ」が、当事者へも影響して行き、当事者たちが、そうした回りの人の感情にも「同調」する、というのだ。
その結果、彼等も明るく、元気になって行くという。
回りに、同じような「暗い」人々ばかり集まってしまっては、ずっと暗いまま、という事にもなりかねない。
だから、話を聞いてあげる当事者でない人間たちと接する事が、癒しから、再び、生きるエネルギーを得る作業にも貢献することになる、というものらしい。
そうした意味で言えば、スポーツ番組なんかや、露骨なお笑い目的でない娯楽番組なんかが、適役かもしれない。
時には、真面目に語り、時には、笑いもあり、という番組だ。
一時期の芸能人のように、突然、現われて、上から「がんばれ!」と言われてもなかなか癒されない、と思うのだが、その芸能人のファンであれば、そうした理屈もどうでもいいような感じで、意外に大喜びする少年少女たちがいたりする。
しかし、今は、そうした「教育」を受けたのか、あまり「とにかく、がんばれ!」という芸能人もいないようである。
そうしていい、売れている芸能人と、そうでない、売れていない芸能人がいるのだろう。
ファンでもない芸能人に「がんばれ!」と言われても嬉しくないのかもしれない。
普通の日常でも自分の境遇を不幸と感じウツになったりする人は、元気な人を嫌うものではある。
あるいは、幸せな人を嫌がる、と言ってもいいだろうか。
そうした人に合わせるほどの元気がない、という事だろう。
それが、また、不幸にも引き篭もって行く原因にもなる。
何かあった時に備えて、あれこれの本を読み、心構えをしておくのが一番良いのだが、元気な時に限って、そういう事はしない。
ただ、テレビでやっている野球やサッカー番組やお笑い番組を見て笑い、ゲームをして過ごす。
そんな日々の中、何かのきっかけで、不幸になったとしも、何をして良いかわからない。
もちろん、読書なんかする気分にはならない。
そうやって考えると年がら年中、何も考えないで、過ごしているのが一般の暮らしだ。
地震の最中に「地震対策の本」なんか読んでいる場合じゃないが、だからと言って、大晦日の今日読め!と言われても、その気分ではない。
そんなこんなで、正月になり、やがて「仕事始め」が来て、これまた、それどころじゃない。
気が着いたら、2月になり、3月の人事異動や引越しシーズンとなる。
これでは、いつまで経っても生きて行く術を知らないままに生きて行くしかない。
音楽を教えている関係上、一応、関係ないながら、20代の生徒には、「1日5冊くらい読め!」とむちゃな事を言ったりする。
30歳過ぎたら、もう、素直さと情熱も実践力も薄れるので、ほとんど言わない。
現状の”馴れた日々”を壊される事を嫌がるからだ。
しかし、20代へは、時折り、本も紹介したりはする。
読んでいるかどうかは別だ。
それぞれに実践力の違いもある。
すでに「忙しい」「忙しい」という者もいる。
だから、修行事は、みんな本来の「稽古」とは関係ない日常の私生活で、障害が起きる。
リストラがあったり、家庭に事情があったり、人間関係のトラブルがあったりと、実際に、全く、音楽とは関係ないところで、トラブルは起きてしまうものだ。
その結果、ウツ病にもなったりする。
修行事とウツ病は、表裏一体で、ぎっくり腰のように突然の動きで、やって来る。
修行事に打ち込めるタイプの人間は、がんばり屋さんが多い。
それが、何かのきっかけで、事が上手く運ばなかったり、将来を憂いたりすると、すぐに「ウツ期」に突入する。
まさに、修行事に向いている体質は、諸刃の剣、という資質でもある。
根本の原因は、やはり、「専門バカ」という事に尽きる。
仕事以外の事でしか、自分自身を維持できていないわけだ。
自分を幸福と感じる要素には、3つあって、常に、その点検をしていないと、人は、いつ「落ち込む」という現象にはまるかわからない、という理論がある。
その3つが、「自己」「能力」「人間関係」と言うわけだ。
この3つの輪が、交わった箇所が、バランスの良い人間というわけだ。
もちろん、バランスが悪くても、どちらかの輪が、極端に肥大していれば、それでも何とかなるという。
ここで言う「幸福」は、自我の安定、という意味だ。
つまり、毎日、普通に元気で楽しい、という気分だ。
「自己」というのは、これは、一言ではいえないが、英語で言う「I」だと言う。
「I」は、「私」でもない。
「私」と日本語にした途端に、対している人との上下関係がわかる。
丁寧に自分を言っているわけだから、話相手は、目上の人かな?、まさか親じゃないだろう、となる。
親に向かって「私」はね!とは言わないだろう。
ところが、英語では、誰に会っても「I」でいい。
相手が大統領でもホームレスでも自分の事は、「I」で、相手は、「You」でいいわけだ。
だから、「自己」は、日本人には、なかなか理解できない概念でもある。
人は、あれこれと演技をして生きているわけだ。
親の演技をしたり、子供の演技をして親に向きあったり、恋人に会ったり、夫であったり妻であったり、、だ。
そうした演技をするために、いちいち「仮面」を付けている、という所から、「人」を「PERSON:パーソン」と言う。
これは、「PERSONA:ペルソナ」というのが語源で、俳優の付けている「仮面」の意味だそうだ。
今では誰でも知っている話ではあるが、10代の頃、本を読んで知った時は、興奮したものだ。
この「I」関しては、映画監督でも有名だった故・伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)氏は、「俳優のジャン・ギャバンが、一人、威厳に満ちて、椅子に座っている姿が、この”I”だ」と解説した。
『註:ジャン・ギャバン(Jean Gabin、1904年5月17日 - 1976年11月15日)はフランスの映画俳優。歌手としても活躍した。往時のフランス映画を代表する名優で、一癖も二癖もあるならず者やお尋ね者を得意とし、ギャング映画に数多く出演。深みのある演技と渋い容貌で絶大な人気を得た。(Wikipediaより)』
この話もたまにしないと、最近の若者に伝えられない。
まだ、何の演技もしていない、楽屋で、ただ一人威厳に満ちて大きな椅子に深々と座っているジャン・ギャバンの姿、という事になるか。
夫でもない、妻でもない、子供でもない、先生でもない、ミュージシャンでもない、大統領でもない、、まだ、何の仮面も被っていない自分が、「I」である。
現代では、ロビンソン・クルーソーとなって、何十年も一人、無人島で暮らさなければ、体感できないかもしれない。
『註:ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)は、イギリスの小説家ダニエル・デフォーの書いた小説の主人公、または小説の題名の略称。主に第1作を指して『ロビンソン漂流記』などともいう。。(Wikipediaより)』
今の人には、ロビンソン・クルーソーより、ドラえもんの「無人島へ家出」(第14巻)についての話がいいか。
極端に言えば、「孤独」に異様に強い人間でもある。
これだけが肥大しても人は生きてはいけるわけではある。
ゴミ屋敷「孤独」老人も同様ではある。
しかし、どう見ても、人間としての暮らしを拒否しているわけだから、健全ではない。
ウツになれば、助ける人もいないので、どうなるかわからない。
次に必要な要素の輪が「能力」である。
これは、仕事の能力でもいいし、とにかく才能があって、「有能」なわけだ。
これだけでも会社で生きている人もいるわけだ。
一歩間違えば、ワーカホリック(仕事病)である。
朝から晩まで仕事をしている。
会社人間である。
「自分(自己)」もない。
しかし、これは、定年となって、会社から離脱すれば、何も残らない。
定年後、次第に年賀状も来なくなる。
社会の中での用なし感を強めて、これもウツになる。
最後の輪が「人間関係」だ。
これは、とにかく「人付き合い」だけで持っているわけだ。
会社での仕事も大してできないが、ムードメイカーでもあったりして、それだけで、何とかクビにならない。
誰とでも気さくに話しができる。
しかし、会社が安定している時は、それでいいが、会社が危機になれば、真っ先に、仕事ができない人間としてクビになる。
西田敏行演じる、「釣りばか日誌」の浜ちゃんが、このイメージに近いといえばいいか。
人の気持ちが「安定」するのは、この3つの輪のバランスが良い状態だ、と言う考え方だ。
どちらかに偏ると、何かあった時に、持たない、と言うわけだ。
有能な仕事人間が、何かヘマして、仕事でミスしたらどうか。
会社の同僚との人間関係もできていないから、誰も助けない。
「自己」も会社人間なので、「自分」がない。仕事以外の趣味がないとも言える。
こうなると、これも当然、ウツになり、どうなるかわからない。
最後の「人間関係」だけでもっていた人間でも、人間関係で、同僚や上司とトラブルを起こしたらどうだ。
これも終わりだ。
「自己」がないから、信念もない。仕事もできないから、会社にも居づらくなる。
じゃあ、「I」にも通じる「自己」があれば、いいじゃないか、となるが、そうでもない。
たとえ、「自己」は強くて、信念もあるのだが、これは、経済的な不安や家族の不幸やトラブルでも「自己」は脆くも崩れる。
経済が安定しているから「自己」が保てる、とも言えるわけだ。
あるいは、「家族」が安定しているから、でもいい。
「病気」にも脆い。
突然の「ガン」宣告もある。
自分を支えて来たのは、「仕事能力」でもなく、「人間関係」でもない。
ただ、自分自身を信じていただけであるから、この「自信」が崩壊したら、これも終わりだ。
こうした、それぞれの崩壊が起こらないように、常に、この3つの状態を管理して、自分自身の自我を安定させる「自己管理」が大事であるわけだ。
孤独気味になる日々が続いたら、誰かに会ったりという「交際」を入れたり、逆に、人に合わせる交際ばかりが増えたら、今度は、読書したりして「自己」を強化したり、会社や職場での「能力」も高めて成績を上げておく、と言った、バランス・チェックである。
これを怠ると、誰でも簡単にウツになったりする。
病的なウツは、専門医に任せるとしても、一般の人間でも、何かに偏った生活では、すぐに無理が来る。
もちろん、アーティスト、芸術家、というものは、かなり一方に偏っていて、そこが肥大しているから、「芸」を維持できる、というケースもある。
偏屈な落語家、とか、クラシック・ピアニストとか、画家、と言った、一人でできる仕事の人が多い。
しかし、我々が、そうした人たちから学ぶ事もまた、多い。
「自己」と「能力」だけで、自分を維持しているのが、彼等であるから、多少の人間関係でつまづいてもびくともしない考えを持っているわけでもある。
芸能人は、逆に「人間関係」だけで、持っていたりする人間も多い。
ちっとも面白い事を言わないのに、プロデューサーやディレクターに贈答品とか上げたり、つきあいがよかったり、、、。
こうした、ある一面だけが、肥大した人間たちの「技」を学んで、それぞれの領域を強化する「術」を学ぶわけである。
他人に嫌われても平気な芸術家の魂と、技だけに生きる職人の世界と、人脈豊かなタイコ持ち芸人の極意、と言った所が学ぶポイントでもある。
まあ、この3日間も、何とか、トイレで読書したり、眠気に負けないように、部屋でも立ちながら本を読んだり、と、何とか数冊読破できた。
元気な時に、何もかも学んでおかないと、何かあったら大変でもある。
よくもまあ、ただ、音楽だけを学んでいて、こんな時代を乗り切ろうとしているよなあ、とは思う。
ウツになったり、挫折したり、と言う事は、基本的に、修行事とは、関係のない世界ではある。
直接に関係ない要因で、すべてが、終わってしまう、という事に気づかないまま、運命の奴隷となってしまっている。
何かを維持したかったら、こうした周辺の”警備”をしっかりして、自分自身の砦を守って行かないといけない。
私自身は、この理論を20代くらいに知ってから、けっこう重宝している。
「落ち込む」のは、どこかが「過剰」になっているわけだ。
年末の忘年会ラッシュは、「人間関係過剰」とも言えるか。
年末から新年に掛けての休日は、その意味でも「自己」を深める時期だなあ、と思う。
来年からの参考にしたらいいと思う。
一応、紅白歌合戦は、録画して、あちこち跳ばしてあとから見よう、と思うので録画中。
まだまだ、寝るまでは、「今年」は、終わらない気分ではある。
とりあえず、あと2時間余りで、世間的には、今年の終わりではある。
強烈な勢いで、物事に「終わり」が付けられて、むりやり、新しい事が始められるのが、テレビ界のシステムであるから、一発屋芸人には、さぞ厳かろう。
大晦日、ブログ更新の偉業、ぎりぎりセーフ!
それじゃあと、カウントダウン・ブログという事にしよう。
1回寝ないと新年の気分も出ないので、大晦日もまだ長い。
前回、「人生はトロッコに乗ったようなもの」と、発見したので、誰か言っていたら、それは、このブログが発祥だ。
実際、何年か前に、4D映像、10分体験で、トロッコに乗せられて、インディージョーンズにもあった、危険な冒険のトロッコの旅をさせられた経験がどこかにあったから、「トロッコ」が出て来たのだろう。
前回、テレビで「3.11を忘れない」を一日中やっていたかと思えば、昨日は、また別の局で、似たような番組を延々としていた。
実際に悲しい体験をした時の癒しになる回りの人の態度が脳科学的にあるらしい。
色んなケースの悲しい体験があるはずだが、基本的には、回りの当事者でない人間が、共に「悲しむ」という行為が良いそうだ。
これは、武田鉄矢氏の番組「週刊鉄学」でも同様な指摘で、取り上げていた。
「週刊鉄学アンコール」(12/18(日)午前11時~ 12/20(火)夜9時~)
*「悲しみを忘れないで」
諸富祥彦(明治大学教授、心理カウンセラー)
ここでは、昔は、「貧乏自慢大会」があって、それが、貧乏な人間を癒していた、という。
武田氏は、「兄弟が多いのに、履物がないので、一人一人ずつしか遊びに出られなかった、と、子供時代を自慢しているおばさんがいた。」という笑い話のような貧乏自慢を紹介していた。
これは、「苦労人大会」も同じで、そうした会話によって実際の体験が癒されて行くという。
脳科学的には、こうした「同情」から、「同調」が起こるという。
回りの人は、話を聞いているだけで、実際の「当事者」ではない。
それがいいらしい。
当事者でないから、たまに、テレビを見たりして、お笑い番組があれば、ついつい笑ったりもする。
それを見て、そうした回りの人の日常に対しての「明るさ」が、当事者へも影響して行き、当事者たちが、そうした回りの人の感情にも「同調」する、というのだ。
その結果、彼等も明るく、元気になって行くという。
回りに、同じような「暗い」人々ばかり集まってしまっては、ずっと暗いまま、という事にもなりかねない。
だから、話を聞いてあげる当事者でない人間たちと接する事が、癒しから、再び、生きるエネルギーを得る作業にも貢献することになる、というものらしい。
そうした意味で言えば、スポーツ番組なんかや、露骨なお笑い目的でない娯楽番組なんかが、適役かもしれない。
時には、真面目に語り、時には、笑いもあり、という番組だ。
一時期の芸能人のように、突然、現われて、上から「がんばれ!」と言われてもなかなか癒されない、と思うのだが、その芸能人のファンであれば、そうした理屈もどうでもいいような感じで、意外に大喜びする少年少女たちがいたりする。
しかし、今は、そうした「教育」を受けたのか、あまり「とにかく、がんばれ!」という芸能人もいないようである。
そうしていい、売れている芸能人と、そうでない、売れていない芸能人がいるのだろう。
ファンでもない芸能人に「がんばれ!」と言われても嬉しくないのかもしれない。
普通の日常でも自分の境遇を不幸と感じウツになったりする人は、元気な人を嫌うものではある。
あるいは、幸せな人を嫌がる、と言ってもいいだろうか。
そうした人に合わせるほどの元気がない、という事だろう。
それが、また、不幸にも引き篭もって行く原因にもなる。
何かあった時に備えて、あれこれの本を読み、心構えをしておくのが一番良いのだが、元気な時に限って、そういう事はしない。
ただ、テレビでやっている野球やサッカー番組やお笑い番組を見て笑い、ゲームをして過ごす。
そんな日々の中、何かのきっかけで、不幸になったとしも、何をして良いかわからない。
もちろん、読書なんかする気分にはならない。
そうやって考えると年がら年中、何も考えないで、過ごしているのが一般の暮らしだ。
地震の最中に「地震対策の本」なんか読んでいる場合じゃないが、だからと言って、大晦日の今日読め!と言われても、その気分ではない。
そんなこんなで、正月になり、やがて「仕事始め」が来て、これまた、それどころじゃない。
気が着いたら、2月になり、3月の人事異動や引越しシーズンとなる。
これでは、いつまで経っても生きて行く術を知らないままに生きて行くしかない。
音楽を教えている関係上、一応、関係ないながら、20代の生徒には、「1日5冊くらい読め!」とむちゃな事を言ったりする。
30歳過ぎたら、もう、素直さと情熱も実践力も薄れるので、ほとんど言わない。
現状の”馴れた日々”を壊される事を嫌がるからだ。
しかし、20代へは、時折り、本も紹介したりはする。
読んでいるかどうかは別だ。
それぞれに実践力の違いもある。
すでに「忙しい」「忙しい」という者もいる。
だから、修行事は、みんな本来の「稽古」とは関係ない日常の私生活で、障害が起きる。
リストラがあったり、家庭に事情があったり、人間関係のトラブルがあったりと、実際に、全く、音楽とは関係ないところで、トラブルは起きてしまうものだ。
その結果、ウツ病にもなったりする。
修行事とウツ病は、表裏一体で、ぎっくり腰のように突然の動きで、やって来る。
修行事に打ち込めるタイプの人間は、がんばり屋さんが多い。
それが、何かのきっかけで、事が上手く運ばなかったり、将来を憂いたりすると、すぐに「ウツ期」に突入する。
まさに、修行事に向いている体質は、諸刃の剣、という資質でもある。
根本の原因は、やはり、「専門バカ」という事に尽きる。
仕事以外の事でしか、自分自身を維持できていないわけだ。
自分を幸福と感じる要素には、3つあって、常に、その点検をしていないと、人は、いつ「落ち込む」という現象にはまるかわからない、という理論がある。
その3つが、「自己」「能力」「人間関係」と言うわけだ。
この3つの輪が、交わった箇所が、バランスの良い人間というわけだ。
もちろん、バランスが悪くても、どちらかの輪が、極端に肥大していれば、それでも何とかなるという。
ここで言う「幸福」は、自我の安定、という意味だ。
つまり、毎日、普通に元気で楽しい、という気分だ。
「自己」というのは、これは、一言ではいえないが、英語で言う「I」だと言う。
「I」は、「私」でもない。
「私」と日本語にした途端に、対している人との上下関係がわかる。
丁寧に自分を言っているわけだから、話相手は、目上の人かな?、まさか親じゃないだろう、となる。
親に向かって「私」はね!とは言わないだろう。
ところが、英語では、誰に会っても「I」でいい。
相手が大統領でもホームレスでも自分の事は、「I」で、相手は、「You」でいいわけだ。
だから、「自己」は、日本人には、なかなか理解できない概念でもある。
人は、あれこれと演技をして生きているわけだ。
親の演技をしたり、子供の演技をして親に向きあったり、恋人に会ったり、夫であったり妻であったり、、だ。
そうした演技をするために、いちいち「仮面」を付けている、という所から、「人」を「PERSON:パーソン」と言う。
これは、「PERSONA:ペルソナ」というのが語源で、俳優の付けている「仮面」の意味だそうだ。
今では誰でも知っている話ではあるが、10代の頃、本を読んで知った時は、興奮したものだ。
この「I」関しては、映画監督でも有名だった故・伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)氏は、「俳優のジャン・ギャバンが、一人、威厳に満ちて、椅子に座っている姿が、この”I”だ」と解説した。
『註:ジャン・ギャバン(Jean Gabin、1904年5月17日 - 1976年11月15日)はフランスの映画俳優。歌手としても活躍した。往時のフランス映画を代表する名優で、一癖も二癖もあるならず者やお尋ね者を得意とし、ギャング映画に数多く出演。深みのある演技と渋い容貌で絶大な人気を得た。(Wikipediaより)』
この話もたまにしないと、最近の若者に伝えられない。
まだ、何の演技もしていない、楽屋で、ただ一人威厳に満ちて大きな椅子に深々と座っているジャン・ギャバンの姿、という事になるか。
夫でもない、妻でもない、子供でもない、先生でもない、ミュージシャンでもない、大統領でもない、、まだ、何の仮面も被っていない自分が、「I」である。
現代では、ロビンソン・クルーソーとなって、何十年も一人、無人島で暮らさなければ、体感できないかもしれない。
『註:ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)は、イギリスの小説家ダニエル・デフォーの書いた小説の主人公、または小説の題名の略称。主に第1作を指して『ロビンソン漂流記』などともいう。。(Wikipediaより)』
今の人には、ロビンソン・クルーソーより、ドラえもんの「無人島へ家出」(第14巻)についての話がいいか。
極端に言えば、「孤独」に異様に強い人間でもある。
これだけが肥大しても人は生きてはいけるわけではある。
ゴミ屋敷「孤独」老人も同様ではある。
しかし、どう見ても、人間としての暮らしを拒否しているわけだから、健全ではない。
ウツになれば、助ける人もいないので、どうなるかわからない。
次に必要な要素の輪が「能力」である。
これは、仕事の能力でもいいし、とにかく才能があって、「有能」なわけだ。
これだけでも会社で生きている人もいるわけだ。
一歩間違えば、ワーカホリック(仕事病)である。
朝から晩まで仕事をしている。
会社人間である。
「自分(自己)」もない。
しかし、これは、定年となって、会社から離脱すれば、何も残らない。
定年後、次第に年賀状も来なくなる。
社会の中での用なし感を強めて、これもウツになる。
最後の輪が「人間関係」だ。
これは、とにかく「人付き合い」だけで持っているわけだ。
会社での仕事も大してできないが、ムードメイカーでもあったりして、それだけで、何とかクビにならない。
誰とでも気さくに話しができる。
しかし、会社が安定している時は、それでいいが、会社が危機になれば、真っ先に、仕事ができない人間としてクビになる。
西田敏行演じる、「釣りばか日誌」の浜ちゃんが、このイメージに近いといえばいいか。
人の気持ちが「安定」するのは、この3つの輪のバランスが良い状態だ、と言う考え方だ。
どちらかに偏ると、何かあった時に、持たない、と言うわけだ。
有能な仕事人間が、何かヘマして、仕事でミスしたらどうか。
会社の同僚との人間関係もできていないから、誰も助けない。
「自己」も会社人間なので、「自分」がない。仕事以外の趣味がないとも言える。
こうなると、これも当然、ウツになり、どうなるかわからない。
最後の「人間関係」だけでもっていた人間でも、人間関係で、同僚や上司とトラブルを起こしたらどうだ。
これも終わりだ。
「自己」がないから、信念もない。仕事もできないから、会社にも居づらくなる。
じゃあ、「I」にも通じる「自己」があれば、いいじゃないか、となるが、そうでもない。
たとえ、「自己」は強くて、信念もあるのだが、これは、経済的な不安や家族の不幸やトラブルでも「自己」は脆くも崩れる。
経済が安定しているから「自己」が保てる、とも言えるわけだ。
あるいは、「家族」が安定しているから、でもいい。
「病気」にも脆い。
突然の「ガン」宣告もある。
自分を支えて来たのは、「仕事能力」でもなく、「人間関係」でもない。
ただ、自分自身を信じていただけであるから、この「自信」が崩壊したら、これも終わりだ。
こうした、それぞれの崩壊が起こらないように、常に、この3つの状態を管理して、自分自身の自我を安定させる「自己管理」が大事であるわけだ。
孤独気味になる日々が続いたら、誰かに会ったりという「交際」を入れたり、逆に、人に合わせる交際ばかりが増えたら、今度は、読書したりして「自己」を強化したり、会社や職場での「能力」も高めて成績を上げておく、と言った、バランス・チェックである。
これを怠ると、誰でも簡単にウツになったりする。
病的なウツは、専門医に任せるとしても、一般の人間でも、何かに偏った生活では、すぐに無理が来る。
もちろん、アーティスト、芸術家、というものは、かなり一方に偏っていて、そこが肥大しているから、「芸」を維持できる、というケースもある。
偏屈な落語家、とか、クラシック・ピアニストとか、画家、と言った、一人でできる仕事の人が多い。
しかし、我々が、そうした人たちから学ぶ事もまた、多い。
「自己」と「能力」だけで、自分を維持しているのが、彼等であるから、多少の人間関係でつまづいてもびくともしない考えを持っているわけでもある。
芸能人は、逆に「人間関係」だけで、持っていたりする人間も多い。
ちっとも面白い事を言わないのに、プロデューサーやディレクターに贈答品とか上げたり、つきあいがよかったり、、、。
こうした、ある一面だけが、肥大した人間たちの「技」を学んで、それぞれの領域を強化する「術」を学ぶわけである。
他人に嫌われても平気な芸術家の魂と、技だけに生きる職人の世界と、人脈豊かなタイコ持ち芸人の極意、と言った所が学ぶポイントでもある。
まあ、この3日間も、何とか、トイレで読書したり、眠気に負けないように、部屋でも立ちながら本を読んだり、と、何とか数冊読破できた。
元気な時に、何もかも学んでおかないと、何かあったら大変でもある。
よくもまあ、ただ、音楽だけを学んでいて、こんな時代を乗り切ろうとしているよなあ、とは思う。
ウツになったり、挫折したり、と言う事は、基本的に、修行事とは、関係のない世界ではある。
直接に関係ない要因で、すべてが、終わってしまう、という事に気づかないまま、運命の奴隷となってしまっている。
何かを維持したかったら、こうした周辺の”警備”をしっかりして、自分自身の砦を守って行かないといけない。
私自身は、この理論を20代くらいに知ってから、けっこう重宝している。
「落ち込む」のは、どこかが「過剰」になっているわけだ。
年末の忘年会ラッシュは、「人間関係過剰」とも言えるか。
年末から新年に掛けての休日は、その意味でも「自己」を深める時期だなあ、と思う。
来年からの参考にしたらいいと思う。
一応、紅白歌合戦は、録画して、あちこち跳ばしてあとから見よう、と思うので録画中。
まだまだ、寝るまでは、「今年」は、終わらない気分ではある。
とりあえず、あと2時間余りで、世間的には、今年の終わりではある。
強烈な勢いで、物事に「終わり」が付けられて、むりやり、新しい事が始められるのが、テレビ界のシステムであるから、一発屋芸人には、さぞ厳かろう。
大晦日、ブログ更新の偉業、ぎりぎりセーフ!
Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00
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