2011年12月21日

努力の人、才能ある人、ない人、幼児教育必須三大条件

このブログは、非常にマニアックな内容を扱って来て、10年くらいになるのか。

まあ、これでも、こんなブログを只で読むわけには行かない、と、なんと10年もお中元、お歳暮を欠かさない読者までいる。

だから、なまけそうになったら、そういう人たちの事を思い出して、更新したりする。

しかし、時折り、もっと面白い内容をキャッチーに、という、1,2度しかこのブログを読んだことがない一般の人からの「ブログ指導」もあったりする。

あるいは、「ああ、あの変なサイトね!」と、一言で、某有名NHKアナウンサーに一刀両断されたりしたが、大組織の人間だからって、簡単に自営業の上に立って物を言うなよ!と反発したりした事もある。

地元住人からも、「あの、変なブログまだやってるんですか?」と、たまたま見た人間が、社交辞令で聞いたりするが、おまえは、自分の事を心配をしろよ!と思う事はあっても、「まあねぇ」と、適当にあしらってはいる。

こちらは、大組織と違って、「企画」「立案」から、「会議」「プロジェクト・チーム編成」と、すべて、一人で行なっているわけだ。

言わば、「無」から「有」を生むような生き方だ。

才能も「無」であるから、それを「有」に変えるために修行、稽古がある。

そもそも、「才能」にこだわること自体、「才能もないのに頑張っている」という人間をバカにしている証拠で、その意味でもバカ親でいい。

自分自身に対しては、努力も修行も、あらゆる実践をも放棄しているわけだから、息子、娘に、自分の人生を托すわけである。

そうした意味では、人生でもっとも大切なものは、何かと言われたら、「忍耐」と答えるしかない。

「努力」とも言えない。

努力すれば、何でもいいか、と言うとそうでもない。

大切なのは、「何を努力するか」と言う事であるから、それを知るために、人は、学ぶわけじゃないか。

こうした意味では、人生は、「努力」ではない。

努力は、一歩間違えれば、奴隷の日々だ。

大事なポイントは、「何に努力するか!」に尽きる。

みんな「努力」はしている。

テレビでの筋肉番組、「サスケ」を目指して、何年も努力している者もいるし、何年も浪人しながら、大学を目指している者もいる。

「努力」という二文字に囚われ、人生を棒に振った者は、数知れず。

何十億人といるだろう。

これが、スポーツ選手となれば、その方法論(メソッド)自体が間違いであれば、「間違った努力」となる。

学問の世界でも、「間違ったテキスト」であれば、それをいくら学んでも、「間違った努力」となるだけである。

本当に役に立つ事は、1ヶ月くらいすれば、そこそこに学べるもんではある。

楽器の稽古であっても、昔のお正月番組の「芸能人かくし芸大会」と同じで、ある程度の「芸」は、できるもんではある。

よくテレビ番組で、短期間で、真剣になってピアノを弾く課題にチャレンジしたりする番組もあるじゃないか。

つまり、何年経っても役に立たない事は、一生、役に立たない。

軍隊とは何か、という「悪魔の辞典」で、「100年稽古して、一日で終わる仕事」とあった。

何年も何十年も訓練したとしても、いざ、戦争になれば、一日で、死んでしまうかもしれないわけだから、まったく採算に合わない訓練となる。

その意味では、テレビ筋肉ゲーム番組の「サスケ」なんてのは、軍隊の世界ともいえる。

1年間、毎日、8時間稽古して、30秒くらいで終わるわけだ。

こんな無駄な事に貴重な人生を費やしてはいられない。

何が役に立って、何が、役に立たないか、だ。

という事は、何年経って稽古しても、自信がない、という稽古は、それは、人生に於いて、何の役にも立たない、という事が言える。

本当に自信に溢れた稽古になるのは、たったの一日でも十分だ、と言う事だ。

私なんかも、そうした稽古事を教えているのだが、「こんな事、何かの役に立つんですか?」と生徒から聞かれる事もあるわけで、そんな時に、この話をする。

「役に立つか、立たないかは、本番を経験してしかわからない。何でも、実践してみなきゃ、わからない。実践しないから、役にも立たない事を何年も努力させているんじゃないか?」と言ったりしている。

実践を想定していないから、何十年も、無意味な稽古をして、貴重な人生を無駄にしているわけだ。

持ち前の「真面目さ」で、「努力すれば成功する」と言う ”間違った” 「情報」を信じたために、あっと言う間に10年が経ってしまっても、実践では何の役にも立たなかったりする。

実は、こんな修行の日々を送る人が、圧倒的に多い。

「あと、30年もすれば、できるようになる!」なんて、平気で言うわけだ。

これも一種の「詐欺」に引っ掛かったようなものだ。

そういう指導者に限って「実践禁止」という看板を掲げる。

実践で役に立つか、立たないかの「検証」を禁止するというわけだ。

検証されては、自分が教えている事が役に立たない、という事がばれてしまうというわけだ。

近年は、「婚活」のつもりで、参加したサークル活動なのに、何事もなく、あっと言う間に10年が経ってしまった、という女性も多い。

ジャズの世界で言う「実践」は、ちゃんと人前に出て、アドリブして見せる、という単純な事でもある。

ボクシングで言えば、試合に出る、という事になるだろうか。

そうした「実践」を経て、これらの稽古が、フィードバックされて、本当は、どんな稽古をすべきかが、「見えて」来るわけだ。

あるいは、そうした事から、稽古に対してのやる気度もアップすることにつながる。

今日も、レッスンでそんな話が出た。

子供が半年ばかり前に生まれたという40歳の生徒である。

今週は、本来は、来週に行なわれるレッスンを1週、早めに行い、今年の「稽古納め」となるレッスンの週でもある。

一年を振り返り、どれだけ進化したかをチェックするわけだ。

今、ひょんなきっかけから、「幼児教育」を探ってはいる、という話をしながら、「才能教育」の話にもなった。

結局、子供の才能ばかりにこだわる親は、「才能もないのに稽古している人間」たちをあざ笑って来たんじゃないか、と。

自分自身が、一切、何もして来なかったから、子供の「才能」のあるなしにこだわるのではないか、と。

私だって、才能があるからと音楽を学んだわけではない。

好きだったから学んだわけで、「才能」なんて気にした事がなかった。

「ああ、オレは、何て才能がないんだ!」と悩んだことがない。

何をするにもそんな悩みはない。

きっと何か、勉強の仕方とか、そんなことが間違っているんだろう、という気持ちしかない。

凝り性と言う事はあるが、それは、「才能」とは関係ない。

「凝り性」は、一つの自分の中の「武器」ではある。

何か、知らない事があったら、何十冊も本を買い込んで、これを読みふける。

そこから、すぐに「実践」して見る。

実践しない事には、何事も意味がない、と知っているからだ。

しかし、逆に実践ばかりで、本を読んだりと言った「探究心」「研究心」がないという者も進歩しない。

このバランスが微妙で、大切な所だ。

私自身は、料理もさほど上手いわけじゃなく、パソコンの知識も乏しいのだが、興味を抱けば、ある程度のところまで行けるんじゃないか、という自負はある。

パソコンなんかも、知識はないのに、実践だけで、こうしてブログを書いたりしているし、始めてすぐに、アメリカのCD販売委託業者とコンタクトを取って、CD販売をしたり、ituneに登録したり、と、今、考えれば、よくもまあ、インターネットの知識もないのにそういう事をいきなりやっていたよなあ、とは思う。

今は、やっていないコンピュータ・ミュージックの時も同じだ。

必要なものだけをチェックして、それしかやらない。

最近、本を書くようになったので、原稿を送るのに「添付ファイル」をちょっとだけ覚えたくらいだから、その知識のなさ、山の如しだ!

昔の「時々日記」なんて、メールで送って掲載させていたくらいだ。

とにかく、まず「実践してみる」という体質だ。

だから、「ジャズ」のアドリブも、まず、弾いてから、何とかなるようになってから、ちゃんと勉強を始めたくらいだ。

極端に言えば「勘」で、弾いていたわけだ。

しかし、これではいかん!とあれこれの本を読み漁り、いろいろ学ぶわけである。

そんなこんなで、幼児教育で、一番、学ばせるべき教育は何か、と考えると、1番が「忍耐力」、2番が「探究心」、3番が「創造力」となるんじゃないか。

もう、これだけで、すでに「努力」を意味しているわけだ。

「忍耐力」+「探究心」+「創造力」=「努力」という公式だ。

「忍耐力」があれば、色々な修行事にも耐えて行ける。

「探究心」は、いかにしたら上達するかを探る「知力」を鍛える。

「創造力」があれば、役にも立たない奴隷のように生きるしかない詐欺のような修行事のばかばかしさを見破る事ができる。

貴重な人生をつまらない指導者やサークルに引っ掛かって無駄にしない。

最後の「創造力」は、そのまま「批判精神」も含む。

何でも、仕事欲しさに、お世辞ちゃらちゃらと言っているって事は、「創造力」がないって事だ。

創造力があれば、「う~む、自分なら、こうするなあ~」というアイディアが出る。

これが、そのまま「批判精神」につながるわけだ。

批判精神が、「奴隷」の身で生きている自分自身を救うわけだ。

「創造力」がないから、他人のシステムに従順に従うだけの人生を送っているわけじゃないのか。

真面目に重い石ばかりを文句も言わず持って移動ばかりしていては、ベルトコンベアーも生まれなかったわけだ。

重い石は、誰よりも運ぶのだが、その一方で、誰よりも一番、「もっと何か楽をする方法はないのかなあ」と考えているのが、「創造力」を持った人間だ。

時代は、そうした人たちが、切り開いて行った。

そうした「創造力」が育成されていないから、黙って、「忍耐」だけで、組織に対して従順な「奴隷」の日々を送っているんじゃないか。

若くして「リストラ」されるのも、年老いて「定年」を待つのも、結局は、「おまえ要らない!」という事で、「ゴミ捨て」と同じではないか。

現代では、「定年」は、老人を意味しない。

高倉 健(1931年〈昭和6年〉2月16日生 )も宇津井健(1931年10月24日生)も供に80歳。

やっぱり、才能教育よりも、いかに「無」の状態から、「有」の状態に持って行くか、という事に、「探究心」を使い、様々な困難に「忍耐力」を活用し、「創造力」で、そうした困難を打破して行ける教育こそが、幼児教育に求められるべきじゃないか。

もっともっと、才能がない事に取り組んで、何とか、これを「人並み」から、「人並み以上」にまで持って行く、といった数々の修行をと積ませるべきじゃないか、と思う。

「才能がある」という事は、その日の気分次第で、好き嫌いで行なって行くだけであるから、よほど注意して監視していないと、トンデモわがままな子供が出来上がるんじゃないか、という話をした。

私の音感トレーニング本も、そうした親たちへの挑戦状ではある。

「この著者は、バンドマンだから、クラシックの人は何の役にも立たないです」という評もあるらしい。

しかし、そろそろ、自分は、一体、どんな事に才能があったのか、を考えて見ても良い年齢に来ているかもしれないではある。

本当に、才能がある、ないを考えた事が全くないからだ。

才能が、ないから苦労しているんだ、という事であれば、ひょっとしたら、そうかもしれない。

とは、思うが、いまだに、「いやいや、こんな稽古をしたら、いいんじゃないか」と考えていたりはする。

たぶん、自分の親自身が、「才能」という言葉の意味すら、理解していなかったんじゃないか、と思う。

まったく、概念になかったのだろう。

まあ、親が褒められる事は、この程度だろう。

いや、待て。

これを親が教えなかったから、こんなにも才能もない事ばかりに夢中になって、苦労しているんじゃないか!。

まあ、どっちにしろ、まだ、遣り残したことばかりなので、このままでは終われない。

それに、嫌な事は、「努力」しないと、なかなかできるものではないが、好きな事は、誰しも「夢中」になってしまうので、「努力」したという印象が残らない。

そんなわけで、幼児に「努力」を教える必要はないのではないか。

そうやって「努力」だけを教えてしまったから、みんな、「奴隷体質」で、貴重な人生を無駄にして生きて来たんじゃないか。

朝早くから、夜遅くまで、空き缶集めに「努力」する人たちも生まれたわけだ。

彼等だって、生まれてから、ずっと、「努力」しているわけだ。

北朝鮮の国民も「努力」の民族じゃないか。

そうした事を考えると、今の所、幼児教育の最大の目標は、「忍耐力」「探究心」「創造力」ではないか、と思う。

こんな事をこうした「日記」で探って10年以上も経ったのか。

ははあ、だから、「まだ、あんな変なサイトやってるの?」と、「才能のある人たち」に偉そうに言われるわけかあ。

な~るほど。



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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │教育