2012年09月26日

カクテル・ミュージックとPLAY NEXT PAGE!アトムの正義

やっぱり、前回のように、あんまりマニアックな話をすると、誰も興味を示さない。

”ホテルのバーにおけるジャズ・ボーカルのあり方”なんてテーマに関心を持つってのは、これこそ、「トカゲのしっぽの長さの研究」と変わりがない。

関心があるのは、実際にホテルのバーで歌っている歌手か、トカゲ人間くらいじゃないか。

まあ、どうせ誰も関心がないついでに、ホテル・バーにおけるパフォーマンスをさらに考察してみよう。

こうした場での演奏は、BGMに撤しないといけない。

これは、「カクテル(COCKTAIL)・ミュージック」というジャンルになる。

”カクテル”だから、”COCK”「(成長した)おんどり、雄鶏」のTAIL (しっぽ)、という事になる。

尚、米国では、”コック”は、男性のアレの事で、下ネタかよ!と言われるので、雄鶏のことは、”ROOSTER”と言うそうだ。(ちなみに、雌鶏は、HEN、だ。)

料理人の”コック”は、”COOK”だから、これは、本当は、”コック”ではなく、”クック”になる。

しかし、日本では、”クック”と言えば、往年のアイドル、桜田淳子の歌で、「クック、クック、私の青い鳥~」と歌われて有名だ。

鳩の鳴き声が、クック~だ。

しかし、鳩の鳴き声は、英米では、COO(ク~)、COO(ク~)と鳴くはずなのだ。

確か、映画、サウンド オブ ミュージックでも子供たちが、おやすみの歌を歌う際に、「クック~」と歌う。

あれ?変だな、と辞書を調べて見ると、どうも、これは勘違いで、COO(ク~)、COO(ク~)を連続していただけで、それを「クック~」と聞き違えていたわけだ。

だから、本当は、「ク~、ク~」と子供たちは、歌っていたわけだ!

おお、これは、凄い発見だ!

これは、桜田淳子に教えて上げないといけないかもしれない!

鳩の鳴き声は、「クック~」の一語ではなくて、「ク~ク~」と言っていたわけだから、これは、一語ではなく二語だ!

そういえば、サウンド オブ ミュージックでの子供たちの歌も、「ク~ク~」と歌っていた気がして来た!

えっ?そんなことわかっていたって?

いやいや、そんなことは絶対ない!

もし、そうだとしたら、桜田淳子の「わたしの青い鳥(1973年8月25日)」を歌った事がないからだ!

「ようこそ、ここへ、わたしの青い鳥、クック、クック~、クック、クック~」と言った調子で歌うわけだ。

しまった!

話は、カクテル・ミュージックだ。

つまり、「雄鶏(おんどり)の尻尾(しっぽ)の音楽」ってことになる。

何で、雄鶏の尻尾かってなると、よくわからないらしい。

まあ、たぶん、”カクテル”が、雄鶏の尻尾にでも似ていたんだろう。

雄鶏の尻尾で、かき混ぜるとか、、、。

なぜ雌鶏か、という事でわからない関連で言えば、ボーリングの3回連続のストライクが、”ターキー(TURKEY:七面鳥)だ。

あっ!またまた、しまった!

ついつい、お金になる話をしそうになった!

ブログは、つまらない話、本には、生きている内には到底ならない話をする事にしている。

そんなわけで、バンドマンは、バーで何を弾けばいいのか、という事になる。

そこで、この質問をマイルス・デイビスにしたバンドマンがいて、その時のマイルスの回答が、この”PLAY NEXT PAGE!”だ。(ぜひ、あのマイルスのしゃがれ声で!)

マイルスは、クラブやキャバレーで弾くバンドマンの生態をよく知っていた。

いつも、同じ得意な曲ばかりを演奏している、マンネリ、ワンパターンの世界が、バンドマンの世界だ。

そこへ、嘘くさい、ファンを装う、バーの常連客が、お馴染みの曲ばかりをリクエストする。

脳科学の世界では、たとえ、税理士でも、毎日、同じ計算ばかりしていると、ボケが入って来る、という事が判明している時代に、お馴染みの曲のオンパレードの毎晩の演奏だ。

歌手だから、即興的要素は、ゼロに等しい。

たとえ、即興があったとしても、いつも同じアドリブをしているバンドマンもビッグバンド系には、ごまんといる。

有名プレーヤーのアドリブをコピー譜を手に入れ、何十年も使い回ししている。

だから、そんなに長くはできない。

せいぜい、2コーラスぐらいのアドリブになる。

これを30年くらい、何の変哲もなく演奏して、”即興のアドリブ”としているわけだ。

これで、ボケないバンドマンはいない。

もはや、新しい事をするための前頭葉は、退化しまくっているはずだ。

毎日、同じ曲を演奏し、同じ曲をリクエストされる。

こうした実体を、ジャズ界の帝王、哲人マイルスは、見抜いていた。

そこで、「その隣のページを演奏しろ!」というアドバイスをした。

”いつものように、得意な曲ばかりを弾いていないで、その隣のページにある、ぜんぜん弾いていない曲を弾いてみろ!というアドバイスだ。

つまり、マイルスは、”常に未知の事にチャレンジしろ!”と言うアドバイスをしたわけだ。

本当のファンは、常に、その動向に付いて来る、同様に前頭葉が刺激に満ちた人間たちでないといけない。

いつも、いつも過去を振り返り、同じような曲ばかりを要求するファンは、本当のファンではない、というわけだ。

自分の進歩のなさを相手にも要求するって事になる。

「そんな新しい事をやってないで、いつもの古い曲を頼むよ!」という道連れの思想だ。

しかし、あの晩年のマイルスに向かって、「そんなものより、”枯葉”を演奏してくれ!」という自称ファンがいたらどうか?

なんと傲慢なファンであることか。

これこそまさに、「加藤諦三の本は、癖があって良くないよ!」という合意に達したエリート軍団の見解でしかない。

そんな本を読まれたんじゃ、自分が、いかに独善的で、傲慢に家族や部下、といった周りを支配し、パワハラを武器に、奴隷化しているか、、がバレてしまう。

私に関しては、この点は、平気だが、私の場合は、親兄妹、身近な人間には、うっとおしいくらいの”自慢癖”がある。

自慢癖、と言っても過去の話ではない。

過去に自分は、これした、あれした、の話はどうでもいい。

これからの話で自慢するわけだ。

「ああ、それは、オレだったらできる!」とか言う自慢だ。

しかし、女性に最も嫌われるのが、こうした”自慢話をする男”らしいが、女性は、この微妙な違いがわかっていない。

今さら検証できない過去を自慢する人と、これから起こる未来に関して自慢する人、との違いだ。

一般のど~でもよい人たちは、この”似て非なるもの”の区別がつかない。

ま~た、自慢ばかりしてぇ~、、で軽蔑されて終わりである。

ところが、これがいけない。

こうした周りばかりいるから、その人はダメになってしまうわけだ。

いわば、ドリーム・キラーに囲まれているって事だ。

本来は、「そんなに自慢するなら、じゃあ、やって見せてよ!」とならないといけない。

それなのに、何もかも一緒くたにして、「あ~あ、また自慢ばかり!」で話が終わってしまう。

もちろん、これにも”土俵”はある。

「あいつぶっ殺してやる!」と言う発言に、「じゃあ、やってみてよ!」では、困る。

これでは、二人とも阿呆に等しい。

何事も、土俵と文脈がある。

森羅万象、すべてを網羅する言葉は、仏陀の言葉くらいだから、われわれ凡人では、そんな結論にはならない。

このブログは、いつもいつも、小さくて、つまらん話ばかりしているなあ、と言われるが、じゃあ、大きい問題なら、竹島問題や、オスプレイ問題をすればいいのか、となる。

私の見解は、20代の頃から変わらない。

反核運動も「反核祭り」と言ったし、少女暴行の決起大会も無用と言った。

何の気骨もなく、暇な日曜日にピクニックがてら、反対運動に参加しても、世の中は何も変わらない。

本気なら、仕事もすべて放り出して、月曜日に集会し、その意向に添わない事が起こったら、中国の若者のように”暴動”する気持ちがなくては、何も動かない。

10万人が、日曜日の良い天気に野外に集まって、エイエイオ~とやった数日後、当たり前のように、それを無視したオスプレイ配備が決定するなんて、じゃあ、何のための集会か。

本気なら、暴動になっていいわけじゃないか。

誰だって、日曜日の良い天気には、暇つぶしに、”良い事”に参加しようと思うわけだが、本気じゃないわけだから、月曜日からは、そんなことは、どうでもよいと、仕事の日々が始まるわけだ。

もしも、本気で反対する人たちがいて、その数日後、それを無視した政策が実施されたら、普通、”暴動”じゃないか。

そんな事も起こらない集会だから、完全に舐められているわけだ。

”危険”に対して、何の、社会的な機能の”停止”も起こさない。

かつての、”社会党”、”日教組(にっきょうそ)”は、何でも、スト(ストライキ:国鉄など)を武器に、国を脅して来たんじゃないか。

そうやって、国家の機能を止めて来たから、ついに解体されて民営化されたんじゃないか。

私の小学校、中学校時代の日教組の教師軍団は、サブリミナル洗脳として”大きくなったら社会党に投票しなさい!”と児童を秘かに”洗脳”して来た。

これは、まるで、今の中国の対日本教育のようだ。

ストライキ=正義、、というのが当時の教育だ。

私は、支配者側の論理で動く小さな土木屋の社長の家庭に育ったから、家庭では、ストライキ=悪、と教育された。

だから、大きくなってそれを客観的に比べる事ができた。

私は、親も学校もどちらも拒否した側の人間だったからだ。

そんなわけで、このブログは、素人では、一体どっちの領土かわからない竹島の話も、暴動する気もない10万人が反対するオスプレイの話もしないわけだ。

なんで、一度、総理大臣を逃げ出した、安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年〈昭和29年〉9月21日 - )が、再び、返り咲けるのか。

普通、あのままだと、議員すら辞職すべきだったんじゃないのか、と思っていたくらいなのに、平気で、居座り続けている。

何でも、そうだが、それだけ、周りが扱いやすい人間が必要だったんじゃないか。

彼より年配の偉~い人間がいる中、若い阿部氏が選ばれる、という事は、彼が、かなりのイエスマンだと言う事だ。

何万人、集まろうが、何一つ変わらない事と、市会議員が結集しても、せいぜいできる事は、その辺の道端で、反対デモ行進するしかないって世界に関わって何が益になる事なのか。

これが、中国の若者なら暴動を起こす。

昔の沖縄の若者も暴動を起こした時代があった。

だから、私にできる事は、バンドマンは、ホテルのバーで何を弾くべきか?って話くらいだ。

私は、日曜日のピクニック集会に行かなかったわけだから、非国民って事になるんだろう。

しかし、元々、団体行動は、嫌いだから、しかたない。

まあ、一番、怒ったのは、暴行少女の集会だったけど。

何の力もない上に、本気に関わる勇気もないのに、事を大げさにして、二次レイプをしているようなものだ!と当時は思った。

その事を飲み屋で言ったら、通りすがりの集会に出たという沖縄在住の本土出身者が、貴様、それでも人間か!と私に言った。

1995年頃。

あれも、日曜日の良い天気の日だったはずだ。

そうだ!

鉄腕アトムだ!

鉄腕アトムは、10万馬力だから、人間で言えば、100万人に匹敵するんじゃないか。

人類のために、アトムは、カプセルを抱え太陽に突進するんだったか。。

今で言えば、オスプレイに突進か。

結局、人類を救うのは、たった一人の英雄の勇気しかないって話になるのか。

「無駄であっても参加する事に意義がある!」という意見もある。

じゃあ、参加しなかった人間は、意義はないか、となる。

誰も本気でないなら、じゃあ、10万人で、会社を休んで、タコ上げでもして、オスプレイ飛行を阻止するしかないか。

改めて、”正義なき力は無能なり、力なき正義も、また無能なり”、、を思う。(こ、これは、あのお方の言葉だったなあ。。)

とりあえず、自分にできるアドバイスは、10万人にではなく、ほんの数人のバンドマンに”マイルスも言っている、ちょっと待て、その隣のページを弾きな!”と言うくらいだ。

もちろん、ピクニックは好きだから、機会があれば、いつか、何かの集会に参加はしたいが、そもそも、団体行動が嫌いってのがいけない。

本気じゃないから、団体行動を取るんじゃないか。

高倉健さんの任侠映画では、何か目的がある男は、常に、黙って一人で、敵地に向かっていた。

ちょっと、子供の頃、そんな映画に洗脳されすぎたのかもしれない。

だから、今だに、「沖縄」に参加せず、一人でぽつんと暮らしているんだと思う。

それは、沖縄ジャズであろうと、沖縄社会であろうと、変わりない。

鉄腕アトムも正義を貫くために、ロボット仲間と群れなかった。

しかし、その覚悟もないのに、多数派の意見に媚びて怒って見せるのは、バンドマンの習性ではある。

さて、オスプレイ試運転の日に、何人が、会社を休んで、その横の空で、タコを上げているのだろう。

10万人分の何人か、って事になるのだろうか。






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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │修行&音楽