2012年02月08日

上京、独立の人、青春プレイバック、スカイツリーと餃子の王将



突然、葬儀に出る事を決め、2月4日の午前8時の第一便の飛行機に乗り上京し、午後1時~3時の青山葬儀場での葬儀に出席した。

東京は、1999年頃に一泊二日で、行った事がある。

その時は、確か、レコード店へCDの行商のためだったはずだ。
当然、どこの馬の骨ともわからないミュージシャンは門前払いではある。

昔は、ハード(ウェア)モノ、箱モノの商売系が、殿様だった。

インターネットの時代は、実にありがたい。

中間の障害物が除去されて、「ソフト」が、自由に飛び交う事ができる時代が来たか。

とは言え、売れないモノを店先に置かれてもスペースを取るだけで、じゃまではある。

そこで、売るための努力、、、犯罪を犯して、有名になる、と言ったスキャンダル型もセールス努力の一環となる。

これが芸能人となると、話題作りには、様々なテクニックがあるようだ。

という話は置いといて、とにかく、13年ぶりとなる上京だが、その時も1日しかなく、実際は、どこへも行っていないはずだ。

それでも、その頃の東京も、色んな雑誌や資料、譜面なんかもあって、情報を得るためには、貴重な土地だった。

まだ、インターネットも普及していなくて、その存在もよく知らない頃だ。

東京の本屋では、「全国レコード店ガイド」なんて雑誌も手に入れたりして、これを元に電話を掛けまくったりしたが、一般のセールスとしか受け止められず、これも相手にされなかった。

92年に本格的に帰郷してから、となると20年ぶりとなる上京だ。

青山葬儀場となると、さすがに、色々な有名人も出入りするようで、何人か、雑誌でしか見た事のない有名人を見掛けた。

しかし、あまりにマニアックなので、ここで名前を挙げてもよくわからない、と言われそうで、また、いちいち、人物紹介をするのも大変なので、控えておく事にしよう。


葬儀を終え、一人で暇なので、葬儀場で偶然、俳優で活躍している佐賀県出身の「一ノ瀬ワタル」に会う。
26歳だが、彼が19歳の頃から知っている。

4年ぶりかの再会だ。

映画「クローズ」など、あれこの映画にも出たそうで、最近は、スマップの草彅主演の「任侠ヘルパー」の映画版にも端役のヤクザ役で出る、という。

いやあ、人間、こんなにも活躍するかなあ、と思われるくらい頑張っている。

バラエティー番組にも出ているらしく、話題は、もっぱら、いかにすべらない話をするか、と言った話しになり、私が、一方的に喋りまくって、ネタを伝授したら、一応、死ぬほど笑っていた。

さらに、調子に乗って、全く、門外漢なのに、役者の心得まで、伝授したが、これは、何の役にも立たないだろう。

私は、ビール、焼酎お湯割り、、、と飲んで、話しているのだが、ワタルは、明日、早いという事で、コーラを呑んではいたが、あれこれと注文し食べまくってはいる。

もちろん、私の驕りだ。

彼が、19歳の頃、まだ、ステーキというものを食べた事がない、というので、「何だって!オレに着いて来い!」とステーキを奢ってやった事があるほどの太っ腹な男だ。私は。

ちょうど、3時間ばかり経ったら呼び出しの合図が、私の携帯へ電話が掛かる。

葬儀関係者、6人程度の小さな飲み会があった。

歩いて15分ほどの所に場所が変わる。

ワタルは、着いては来たが、知らない人ばかりなので、挨拶だけして、明日のために、と帰って行った。

そこでは、寿司が30貫くらいと、ピザの大、小の差し入れがあった。

私自身も3人は、誰が誰か、さっぱりわからず、とにかく、「ああ、そうですか」とあいづちを打ちつつ酒を呑む。

今までの社長気分から、平社員の接待となる。

人を社長に扱うか、平社員に扱うか、はその人の器のでかさ、見識の高さ、洞察力に掛かっているが、今回は、平社員、としての扱いではある。

一般に、サラリーマン社会だから、仕方ない。

まあ、「年齢」至上主義の公務員から「芸歴」至上主義の吉本芸人のように、世の中は「年功」、「芸功(?)」の序列社会でもある。

これが、「自由業」や「商人」なら、すべてが、「顧客」だから、敬語しかない。

「組織」という看板が、親方、日の丸、という意識でいるから、「自動的」に序列が決まってしまうわけだ。

そうした、敷かれたシステムの制度の中での「序列」を重んじる意識自体が、そもそもの「依存型の権力志向」でもあり、権力闘争体質の証しではある。

簡単に言えば、社会では、誰からも尊敬されず、認められず、いばれないから、組織の中だけの序列にこだわりいばるわけである。

これもまた、「人望」のなさの証明でもある。

「人望の強制」である。

尊敬すべき要素は、どこにもないが、一応、その組織では、「先輩」であるから、尊敬せざる得ないと言うタイプだ。

当然、「定年」となって、組織を「卒業」となれば、持ち前の「人望のなさ」のおかげで、翌日から、誰も寄り付かない。


力がある者は、その組織を飛び出しても生きて行く自信があるわけだから、そうした「組織内限定」の序列にはこだわらない。

人間本来の、「尊敬に値いするから尊敬する」という「基準」に則って生きている。

しかし、「自由業者」にも錯覚はあって、「仕事をくれるから尊敬する」という「後輩」「先輩」がいるだけなのに、それを自分自身の「人望」と勘違いする。

これは、太宰治の解釈ではなく、本来の意味での「金の切れ目が縁の切れ目」である。

「仕事の切れ目が縁の切れ目」というわけだ。


一般に、40歳を過ぎれば、逆転劇はない。

あるとしたら、よほどの運気の良さか、本人の荒行、修行の結果である。

普通に生きているだけの人生では、40歳から何かを変える、というのは、そうそうない事ではある。

組織と長となって、独立を決心する人は、大体、40歳くらいが分かれ目だ。


急に思い出したついでなので、楽天の三木谷 浩史「(みきたに ひろし、1965年3月11日 - )は、日本の実業家。楽天株式会社の創業者で代表取締役会長兼社長。」氏のプロフィールを見てみよう。


『三木谷 浩史:

1965年 兵庫県神戸市生まれ。6歳まで神戸市垂水区にあった神戸商科大学職員住宅に居住。

1973年 小学校2年時に父がイェール大学研究員に就任したため家族で渡米、アメリカで2年間過ごしたのち、帰国し明石市立松が丘小学校入学。

1988年(22~23歳) 一橋大学を卒業し、当時の日本興業銀行(現:みずほコーポレート銀行)に入行。名古屋を経て、本店外国為替部配属。

1991年 結婚(25~26歳)、同期で初めてハーバード大学に留学。滞米生活で企業家への夢が芽生える。

1993年 MBA取得(27~28歳)。

MBA取得後は、企業金融開発部で国際的なM&Aの斡旋を担当し、孫正義(ソフトバンク)、増田宗昭(TSUTAYA)などが顧客であった。

1995年 1月17日(29歳) 阪神・淡路大震災で故郷が瓦礫の山と化し、敬愛していた叔父叔母を失ったことが人生観に大きな影響を与えた。間もなく起業を決意。


*11月 日本興業銀行を退職、コンサルティング会社のクリムゾングループを設立(30歳)。


慶大院卒の新卒者と2人だけの起業であった。

1996年 2月 株式会社クリムゾングループ社長(30歳)

1997年 2月7日 クリムゾングループで稼いだ6000万円を元手に、株式会社エム・ディー・エム(現・楽天)を設立(31歳)。


2002年 (36歳~37歳)

アメリカの経済誌『フォーチュン誌』の若手富豪ランキング6位に選ばれる。この当時から3000億円近い資産を有していた。

5月 株式会社ネクスト取締役(37歳)

6月26日 カルチュア・コンビニエンス・クラブ取締役

8月 楽天トラベル代表取締役 


2004年 (38歳~39歳)

1月 クリムゾンフットボールクラブ代表取締役(38歳)

ライブドアに続いて、プロ野球への新規参入を意思表明する。

株式会社楽天野球団(球団名は東北楽天ゴールデンイーグルス)を設立し、本拠地を仙台市に置くことを決める。


11月2日 プロ野球オーナー会議の最終審査で、ライブドアとの競争に勝ち、楽天野球団の参入が正式承認され、プロ野球球団のオーナーとなる(39歳)。

プロ野球とJリーグのオーナーを務めたのは三木谷が初である。

2005年 6月 国内信販株式会社(現楽天KC)会長(40歳)


2010年 (44歳~45歳)

フォーブス誌の日本人富豪ランキング6位にランクイン、47億ドル(約4277億円)保有していると報じられる。
1月21日 ビットワレット株式会社代表取締役社長就任(45歳)


2011年 (45歳~46歳)

東日本大震災発生時、自身が阪神・淡路大震災の影響を受けた経緯から、推定10億円もの義援金を寄付したと報じられた。なお、東日本大震災の日(3月11日)は奇しくも三木谷の誕生日でもある(46歳)。』(Wikipediaより抜粋)


三木谷氏が、正式に独立したのは、30歳の頃のようだ。


しばらくして、ワタルから、「今日は、ためになるお話ありがとうございました!」とメールが来る。

「まだ、宴会中」と返信。

また、次は、何年後に会う事か。。

その時には、さらに有名になっている事だろう。

(しかし、そんな上から目線で言っている場合ではない。彼は、すでに、26歳で、Wikipedeaがあった!)


飲み会は、零時過ぎになると、「じゃあ、締めで、ラーメンを食べに行こう」となったので、近所のラーメン屋に。

今、このブログを書きつつ、、録画したテレビ番組、「日本歌謡界30年間1番ソングスペシャル」(1月19日放送)で、秋川雅史の「千の風になって」が、2007年売り上げ1位、という事で、生出演し、歌っているのを聴いたら、涙が、溢れて来た。

ブームが去った後も、精進を続け、さらにパワーアップし続けた世界の芸の前に、ただただ涙。

この人は、この歌だけで、人々を救おうという使命感を持って生きているんだなあ、と言う気迫が伝わる。

立ち振る舞いに浮ついた所なし。

う~、お見事!

もう、5年も前のヒット曲になるのか。


という事で、翌日、2月5日は、午前10時に起きて、17歳から23歳(1983年)まで過ごした、練馬区練馬へ20年ぶりで向かう。

1990年当時にに再上京した際、この練馬へ10年ぶりで訪れた事がある。

最初は、30歳から32歳まで住んだ西荻を覗いてみようと思ったが、六本木駅からは、練馬へ直通の地下鉄があった。

厳密には、ホテルは、「アパホテル西麻布」なので、西麻布駅の隣が、六本木駅だ。

練馬へ到着すると、自然とある方向へ足が向かう。

どうやら、身体が覚えているようだ。

角に何となく、見覚えのある電話だけ置かれている公衆電話。

見覚えがある。

寒空で、何度か電話を掛けた事がある。

しかし、この近くにあったはずの、昔、住んでいた8階建ての「藤岡マンション」が、消えている。
この6階に小説家志望の従兄弟と住んでいた。

ギターの練習の騒音の問題で、アパートよりは、マンションに住むのが部屋の造りからしてよかったので、当時、練馬に住んで新聞配達奨学生をしていた4歳上の従兄弟と同居する事にしたのだ。

部屋は、6畳のキッチンをはさんで、完全に6畳の二間でお互い独立した部屋だった。

歩いていると、あるはずの踏み切りも無くなり、線路は、頭上の方で走っている。

さらに、しばらく、歩いていると、なつかしい看板があった。

「大沢一仁ギター教室」「大沢ギター音楽研究所」

何もかも昔のままだ。

、、ってことは、「藤岡マンション」もこの近くだ、と引き返して探す。

マンションから教室までは、「徒歩1分」だったからだ。

あったあった!

しかし、マンションは、3倍くらい大きくなっていて、名前も「グランコンフォート練馬」となっていた。

残念。

面影は、どこにもない。

さらに、探検を続ける。

大沢ギター教室を通り過ぎて、豊島園方面へと向かうと1分くらいして、たまに行っていた老夫婦の定食屋がある。

名前は覚えていないが、現在は「味の店:和洋定食 ラーメン、ミニガーデン中野屋」という看板が掛かっていた。

さすがに30年前の老夫婦だから、もう全く違う人か、息子の店か。

駅前に引き返し、毎日のように通って居た、5種類の定食のある喫茶店を探しに行く。


「から揚げ定食」と「焼肉定食」「ハンバーガー定食」「クリームコロッケ定食」までは、思い出す。

独特な味のするアフターのコーヒー付きだ。

そこの「おばさん」もなつかしい。

この店は、練馬自体が、地下鉄が敷かれていたりと、街全体が、変わっていたので、どうしても探せなかった。

1990年からすると、22年ぶりか。

あのオバサンは、どこにいるのか。

1980年頃の二十歳の私は、無口なので、あまり、音楽と関係ない人と口を利いたことはない。

大沢ギター教室の大沢先生へは、去年、自著を贈呈したら、折り返し手紙を貰った。

1992年頃も10年ぶりで、ハガキを出したら返事を貰った事もある。

今年出した年賀状への返信が来た。

確か大正14年生まれなので、現在は、87歳くらいか。

私の父親が、昭和2年生。1927年で、85歳。

大正は、15年までで、昭和元年も一週間くらいしかない。

だから、私の元気な父親よりは、2歳くらい大沢先生が年長であるが、実際は、1歳くらいの差かもしれない。


突然、訪問しても困るだろう、と素通りした。

私が、在籍したのは、19歳頃から2年ほどだったか。

発表会まで出た。

そのために激安の3万円のリクルート用の紺の背広上下を購入し、初めての発表会にも出た。

家の中を探せば、その時の発表会の舞台で、私がギターを弾いている写真がどこかにあるだろう。

発表会が終わってからの打ち上げにも出席した。

当時は、お酒はそれほど好きではなかったから自分から進んでは呑まなかった。

強くもなかったし。。

進んで呑むようになったのは、24歳頃からじゃないか。

そんなわけで、わざわざ尋ねて行くほどの弟子でもない上に、ジャンル違いの人間の突然の訪問も困るだろう、という事で、大沢先生宅訪問は控えた。

荷物になるから、と、沖縄からのお土産もない。

22年ぶりで、家の前を通った、という事だけで満足である。

こうして、練馬への「青春プレイバック」を終えたので、待機している編集員、H君にメールしJR総武本線の「亀戸駅」で待ち合わせ。

仕事のアイディアを得るご利益がある、という「亀戸天神社」(東京都江東区亀戸)を参拝に行くためだ。

今回の上京の目的として、ランダムに、まず「餃子の王将」で”餃子とから揚げを食べる”、というのがあった。

しかし、調べても、西麻布近辺にも練馬近辺にもなかった。

初めて体験した西荻の「餃子の王将」は、なくなっていて、隣の荻窪駅にある、という。

そこで、諦め掛けていたところ、「亀戸天神社」参拝を決めたら、「餃子の王将、亀戸店」が、亀戸駅にあった!

けっして、餃子の王将から決めたわけではない。神社を決めたら、近くにあったのだ。

あれこれあって、二人して亀戸店へ。

思った通りの美味しさに満足。

本当に沖縄にないのが残念だ。(5年くらい前か、、「大阪王将」は1件上陸したのだが、、。)

あれこれと餃子を食べつつ、話していて、いよいよ「リズムの本」を書く事になるか、という話題にもなった。
企画会議で、ちょっと話したら、手ごたえが少しあった、というのだが、このテーマは、「音感」以上に大変なテーマでもある。

そもそも、一般の音楽好きと話していて、「音感」と同様に「リズム」の話は、毎回、わずらわしいので、ちゃんとした本でもあれば、と思っていた事ではあるが、いざ、書け、となると、ちょっと考えも付かないほど、話は、広範囲ではある。

店を出て、神社に着いて驚いた。

神社の後ろに「東京スカイツリー」(東京都墨田区押上)がそびえ立っていたのだ。

実は、「餃子の王将」で餃子を食べる、という目的の他に、「東京スカイツリーを見たい」というのと、「六本木ヒルズを見たい」と、「お台場を見たい」と言うのがあった。

「六本木ヒルズ」は、初日、西麻布の駅に降り立って、青山葬儀場へ向かう際、駅の目の前にあった。

今度は、東京スカイツリーが、目の前にあったのだ。

これが、神社パワーか!と思われるくらいラッキーではある。

神社を選んだら、「餃子の王将」と「東京スカイツリー」も偶然に体験できたわけである。

なんと言う、偶然か!

それにしても、東京スカイツリーを真下から見上げたら、目がクラクラして来て、まっすぐに立っていられなかった。
後ろにひっくり返りそうになる。

高さは、「ムサシ」と言うので知られ、「634メートル」という事だ。

身体の重心が、634メートルのてっぺんへ吸い上げられて行く感じだ。

これは、一種の「視覚による幽体離脱現象」といえるだろう。

女優、シャーリー・マクレーンが体験した、というあの幽体離脱か!


『註:シャーリー・マクレーン(Shirley MacLaine、本名:Shirley MacLean Beaty、1934年4月24日-)はアメリカ合衆国出身の俳優である。バージニア州リッチモンド出身。俳優のウォーレン・ベイティは弟、サチ・パーカーは娘。

1983年に刊行され世界的なベストセラーとなった『アウト・オン・ア・リム』をはじめ、多くの精神世界に関する著作がある。』


シャーリーは、1983年頃、あれこれ凝って見ていたのだ。

宇宙飛行士が、宇宙から帰還した後は、なぜかみなスピリチュアルな世界、神への信仰心を強める、というのだが、共通して言えるのが、”地球を宇宙から見る”、という現象だ。

瞑想も極地は、身体意識(幽体)が、地球を越え、上昇して行く。

その結果、宇宙飛行士が経験したことと同じように、”地球を宇宙から見る”という現象を経験する、というわけだ。

これをシャーリーのビデオでは、瞑想の結果、生涯に1度というくらいの幽体離脱体験をすることになる、というわけだ。

まあ、今まで生きて、真下から地球上の建造物を眺めた経験の中、これは、トップの高さなので、脳も未体験だったのだろう。十分、トリップ(朦朧と旅をする)する事ができた。

これは、シャーリーのビデオにもあった、「映像による瞑想(トリップ)」とも同じだ。

渡 哲也(わたり てつや、1941年(昭和16年)12月28日 - )は、休日は、洗濯機の中で回る洗濯物を眺めているのがストレス解消、と言う、どうでも良いエピソードを10代の頃に読んだ事がある。

こうした事から、スカイツリーを見上げていると、目がクラクラして、やがては、幽体も離脱して行く事が予想できる。

そもそも、何かを「見上げる」とういうのは「畏怖」の行為でもあり、それとともに「憧れ」の心理も含むはずだ。

まあ、スカイツリーは、まだ営業していなかったが、現在は、問題も発生していて、あまりの高さに、てっぺんが凍りついたてしまい、そうした氷りが落ちて来たりするので、危険だ、というタクシーの運転手の話を聞いて来た、という者の話をさらに聞いたが、ホントかどうかのウラは取っていない。

そんなわけで、スカイツリーの真下は、なかなかの幽体離脱のための瞑想スポットではある。

スカイツリーを一回りして、午後5時頃、「Cine Mad Cafe」という、映画のポスターだらけの小さな喫茶店に入り、H君とアイス・コーヒーを飲む。

厚着をしていて、歩き回ったので、けっこう暑かったのだ。

午後8時発の羽田ー沖縄の便に間に合わせて、H君と駅で別れ、羽田へ向かう。

翌日は、また、教材のCDのレコーディングなので、お土産にと、桜の匂いのするロール・ケーキ、空港限定販売、というのを自分用とメンバー3人用にと1500円で買う。

(翌日、不評なのか、みんな半分残して帰る!やっぱり、お土産は、100円くらいの飴くらいのものでよかったなあ、と思う。)


東京は、死ぬほど寒いかな、と思ったが、4日、5日は、天気予報も「晴れ」で、そうでもなかった。

暖房の効いた電車の中は、逆に暑く、汗がじわ~とにじんだ。

こうして、13年ぶりのまたしてもたった一日の東京への旅が終わる。

このペースで生きていては、次の上京は、66歳くらいなのだが、これではいかんなあ、という気持ちはある。

誰か、東京での仕事を作って貰いたいものだが、午前零時くらいにお開きとなる飲み会は、大体、午後6時頃からスタートすべきではある。

しかし、重いアンプやギターを抱えて、オーナーも不機嫌の客もいないライブをやり、終わって2時間くらい呑んで終わり、という一日は、地獄界の一日ではあるので、そんな人生には何の未練もない。

そうだ!

2月10日には、ベストセラーを出した、という私にインタビューしたい、という事で、東京から雑誌の取材が入っている。

わざわざ、沖縄にやって来てのインタビューらしい。

インタビューを受けるのは、1995年7月3日の沖縄タイムス(夕刊)に出た、教室を再開する時以来であるから、これも17年ぶりくらいだ。

また、リットーミュージックの宣伝員も同行して、楽器店や書店を回っての宣伝も行なうそうだ。

(2月10、11日あたりの本屋、楽器店関係者は、よろしくお願い致します!。)

私自身も地元の大手の本屋は、3、4件ばかしは、けっこう頭を下げてセールスしたつもりではある。

地元民も、もう少し、関心を持ってくれたら、とは思うが、地元民を相手にしていたら、私自身は、食うに困って、とっくの昔に消えていただろう、とは思うので、これは、これでいいのだろう。




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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │旅行