2012年01月09日
金の切れ目が幸せの始まり。芸は人のためならず。
人は、あまり、他人の幸せ事を喜ばないなあ、という印象で、それは、友人だ、知人だ、という者の中でもたまに、その正体をさらけ出す者もいたりする。
知人、友人が何をやり遂げても、まあ、大して喜ばない。
もちろん、その根底には、嫉妬心があるのだろう。
当然、嫉妬心は、自分の中にもあって、成功話ばかりを聞かされていたら、何だか、置いてけぼりをくらった感じがある。
「宝クジで、3億円当たったよ!だから、ちょっと1千万くらい使って世界旅行に出て来るよ!」と、ある日、知人から言われたらどうか。
素直に、「よかったね!おめでとう!」と言えるだろうか。
それとも「こいつ、今日限りで、絶交しよう、、、」と思うのだろうか。
実際にあった話で、1億円当たった、というので、親戚筋に100万円を上げたら、「なんだ!たったの100万円か!」と言われた、という話だ。
関係もないのに、天から降って来たような100万円でも、1億円からすると、「なんだ!」となるという。
親戚ですらこうであるから、友人、知人となるとどうなるかわからない。
いや、親戚だから、、かもしれないけど、、、。
人というのは、あまりにも「環境」が違いすぎると、兄弟ですら「疎遠」になる。
そんなドラマや映画はたくさんあるだろう。
「フーテンの寅さん」だって、同様だ。
兄貴の寅さんと、妹のさくらの暮らしは、あまりにも違いすぎる。
ましてや、友達だ、と言っても、それは、永久不変のものでもない。
人は、みな変化している。
ある一瞬の一時期だけ、人と人の環境が「一致」して、一瞬だけ、親しくなる。
ところが、一方が、その一点に留まり、一方が、変化すると、すぐにまた環境の違いが出て来る。
一方は、「友だち」と思っていても、他方は、すでにその変化に敏感で、中々、共有する話題もなくなる。
一方が、失業し、他方が、出世した、という二人の友情関係もしだいに怪しくなる。
そういうドラマや映画もたくさんある。
太宰治の「人間失格」では、「金の切れ目が縁の切れ目」の解釈として、お金がなくなると、次第に心も貧しくなり、自分から友達の下を去って行く、というような事を言っていた箇所があったはずだ。
お金がなくなった方の人が、自分から、自分をみじめに思って、世間から去って行くわけだ。
確かに、そういう所はある。
「よ~!今、ホームレスやってんだよ!」と堂々と家族のいる友人の家を訪れる者もなかなかいないんじゃないか。
だから、成功するって事は、ある一点に留まっていた地点から、移動して行くと言う事だから、その時点で「友人、知人」としていた関係から変化する、という事でもある。
常に、変わらない関係、というのは、お互いが同様に変化して、同方向に移動している時である。
お互いが、同じように「走って」いる場合だ。
人生は、いつまでも、のび太とジャイアンの関係のままでもいられない。
世は、「無常」で、世の中も自分の心も常に変化する。
一箇所に留まっていたら、変化する人との間には、一瞬にして、ズレが生まれる。
何の実践もなく、ただ一箇所に留まって、批評ばかりしていても、人生は何も変わらないのだが、何もしない人に限って、嫉妬心も人一倍に膨れ上がる。
嫉妬のカタマリとなる。
そうなると、誰の成功話も嬉しくない。
露骨に嫌な顔もなんだから、と適当な愛想くらいは示すのだが、基本的には、面白くない。
だから、話題もなるべく自分からは相手の成功話を振らない。
旅行話も悔しいから、旅行話にも触れない。
もう、何から何まで、面白くないわけだ。
一箇所に留まっていると、誰でもこんな感じで、嫉妬深いお爺さんのようになる。
ところが、自分自身も動いている、変化のある人は、他人の成功話も喜んで聞く。
自分も同じ体験をしているからだ。
その調子で、ここまで登って来い!同じ体験をしようよ!、というわけだ。
そんな話が書いてある本を10代の頃、読んだ事があって、ああ、自分は、常に変化して行く大人になりたいもんだなあ、他人を批評ばかりして、変化する人、成功する人に嫉妬ばかりする大人は、かっこ悪いなあ、と思ったもんだ。
しかし、これが、なかなか実践できない。
ついつい怠け心が働いて、何もせず、テレビでも見ていようかな、なんて日々を送っていると、すぐに、何もしないお爺ちゃん評論家のような嫉妬深い人間になっていたりする。
あいつめ、旅行ばかりしやがって!
あいつめ宝クジ当てたらしいな!
あいつめ、最近、成功してんじゃないか!
という、嫉妬だらけの人間に変貌してしまう。
自分の闘いは、どこにもない。
だから、自分の周りで闘っている人間に今度は嫉妬する。
このまま変化して行ったら、自分が置いてけぼりにされるんじゃないか、という気持ちになるんだろう。
だから、何をするにも否定的な友人、知人になる。
注意していないと、人は、ついつい、そんな日々を送ってしまう。
そのためにも、常に何かに挑戦して行かないといけないなあ、と今年も思うわけである。
積極的な理由でもない。
ただ、そんな生き方は、かっこ悪いなあ、と思うからに過ぎない。
歳を取れば、何でも威張って偉そうに話せば、それで済む。
それで済むけど、ただ威張っているだけだから誰からも慕われないし、誰も着いて来ない。
何事も本気と全力でぶつかった事がないわけだ。
高まる緊張感と高鳴る心臓の鼓動を抑え、どれだけ本気と全力で何かを実践して来たか、が大事だ。
その経験が嫉妬心を吹き飛ばすわけだ。
嫉妬エネルギーをチャレンジ・エネルギーに変換する作業だ。
人前で、何らかのパフォーマンスをするという事は、かなりの緊張感とドキドキ感が伴うものである。
一般の人でもステージで歌を歌う事になったら、同様な気持ちになるだろう。
30歳過ぎたら、誰しも、チャレンジすることを辞め、評論家然としてしまうものだが、何かの芸事を習い出すと、こうした意識を打破できる。
ピアノ教室であれ、ギター教室であれ、発表会と言うのがあり、ステージで演奏しなくてはいけないハメになるわけだ。
これは、カラオケ教室でも同じだ。
たった一人でステージに立つことになる。
人生で、この体験をするとしないでは、大変な違いが出る。
何か偉そうな事を言っている自分が恥ずかしくなって来るわけだ。
普段、偉そうな事を言ってる自分が、ステージでヘマをする、という事との間に矛盾が生まれるからだ。
逆に言えば、偉そうな事を言い出す人は、こうした事が大の苦手である。
とにかく、自分が、いつも笑っている他人に批評される事を一番恐れる体質になるわけだ。
さらに逆に言えば、他人を批評ばかりしているというトレーニング(?)が、こうした人前でのパフォーマンス恐怖症になってしまう事にもなる。
芸事を甘く見ているわけである。
何かの挨拶やスピーチでも同じだ。
「情けは人のためならず」のことわざは、他人に情けを掛けることは、相手のためだけではなく、やがて自分にも良い事が返って来る、という意味だそうだが、これからすると、「芸は人のためならず」とも言えるか。
自分を磨くことになるので、芸事の修行をするわけだ。
もちろん、ちゃんと人前でパフォーマンスしなくては、その目的は達成しない。
部屋でちょこちょこやっている内は、評論家体質からの脱却は難しい。
一番の良いトレーニングは、私のように偉そうな事まで言って、ステージでパフォーマンスまですると、さらなる荒行になる。
ハードルを上げといて、そのプレッシャーと闘うわけである。
こうした経験のない人たちは、とにかく、何でもかんでもボロカスに批評する傾向にある。
これなんか、異性とのデート経験のない者が、テレビに出るアイドルの容姿の評価にうるさいのに似ているかもしれない。
もちろん、こうしたパフォーマンスは、音楽に限らず、お笑いでもいいだろう。
漫才、コントと色々ある。
いかに人前で、何かをする事が、修行になるか、がわかる。
まあ、人間の生き方の一つだから、なんでも評論家然として、偉そうに生きる人生の過ごし方もある。
しかし、それでもいいのかもしれないけど、これから何かをパフォーマンスしてみたい、という人間は、そうした「友人」「知人」に囲まれていては、何をする度胸も付かない。
一緒になって、ああだ、こうだと他人を批評ばかりしていては、いっそう臆病な体質になるだけではある。
だから、基本的に、芸人は、芸人の中にいないといけないのかもしれない。
止まった瞬間に、成長もなくなる。
何事も固定は死である。
何のドキドキ感も成長もない事を惰性で長年やる事も「止まっている」と同様で、死んでいる、という事になる。
そんなものは、何十年稽古しても何の進歩もない。
何の役にも立たない。
というわけで、今日は、午後から教材のCDのレコーディングの第1回目だ。
第2弾は、初めての場所での録音となるが、今回のミキサーは、昔から知っていて、20代の頃から仕事を一緒にしている。
ギターも上手く、何とジャムセッションにも参加して弾いているので、芸人の気持ちがわかるミキサーと言う事になるか。
みんな人生のトロッコに乗って、少しでも前へ行けたら、と思っているわけである。
動き出した途端に、止まっている人が見えなくなって行く。
、、って事は、見える内は、まだまだ、遠くに行っていないって事になる。
止まっている者は、どんどん置いて行けばいい。
道連れにされてしまう。
Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00
│人生論