2011年08月18日

贈答品の気持ち


ここらで、たまには、私の偉大さ、有り難さが、ち~っとも、わからない現地人や現地の生徒へも、”ネズミよ、これが太平洋だ!”と通信生のメールでも紹介してみよう。(え~と~、遠藤賢司”寝図美よこれが太平洋だ”1971年より)


現地では、私よりも偉そうな若者の生徒が何のギャグ話もなく、つまらなそうに帰って行くのが、普通である。
まあ、息子も親父の偉大さがわからない、という感じだろうか。

その内、「よぉ~よぉ~、先生様よぉ~、ここは、買え置きのタバコ置いてねぇのかあ~?」とでも言われそうな感じでもある。

(70年代の学園劇画漫画調だ!まあ、本当に言ったら、さすがの商人の私もさらに笑顔が増して、商売繁盛を放棄するかもしれないだろうけど。。)

ここ1、2年、私は、毎年、お中元、お歳暮を欠かさない優秀な20代半ばの通信生たちから、こんなメールを貰っている、という紹介でもある。

(このブログで、全国の通信生は、他の生徒の実体がわかるわけであるから、たまには、紹介しないといけない。)

生徒からの私への呼び方は何でもいいか、と思ってほっておいたら、私を「おい!友寄!」と言う若者の生徒も出そうだったので、「これからは、先生と呼べ!」と、2年ほど前からこれだけは強制している。

「先生」と呼ぶから、自分自身の心の中に「先生」という概念が生まれ、これを敬う心が生じるわけである。

(だから、「おい!」と人を呼べば、自分の心の中には、「おい!」にふさわしい人間しか存在しなくなる。)

基本的に創造性を重視する”ミュージシャン”である私は、”人間、偉くなったらしめぇよぉ~!”と、なるべく、偉く扱われないように過ごしているが、教育活動ともなるとそうも行かない。

学校教育で、仕方なく”先生”と呼んだ存在ではなく、本気で一生、”先生”と呼べる存在を持たない生徒たちが哀れであるから、そう呼ばせるように2年ほど前から決めたわけである。

大人の生徒は、最初から「先生」と私を呼ぶが、若者系の生徒は、ほっておくと常に”対等”であろうとするから、先生であっても「おいおい、リスペクトはしているから、友寄さん、くらいでいいだろ。」というわけである。

私自身は、そうなろうと思えば、それに一番ふさわしい人間にも成れる自身がないでもない。

もちろん、”人非人(にんぴにん)!”、”人でなし!”、”サイテー!、”ウザイ!”、と言われれば、それはそれで、それなりにベストは尽くせるタイプではある。

まあ、でも、私自身は、「ちょっとお酒を奢りたいのですが、時間はあるでしょうか?」と言われれば、大抵の席には出て、大抵の人の罪は、許してしまう。

ちゃんとした正式な接待があれば、礼節を重んじる私としては、それでOKではある。

お酒好きな人間は、大抵、これでOKなはずである。

今までの自分の非を詫びて、私のために酒席を儲ける、という気持ちが嬉しい。

だからと言って、その辺のスーパーで売っている日常の安酒を平気で新聞紙に包んで持って来られても、嬉しくもなんともない。

人に何かをプレゼントするのに、何のリスクも気持ちも入ってないからだ。
義理チョコと変わらない。

そんなのを持って来る人間の眼を覗けば、それは、その人自身の将来を映し出した水晶玉のようになっている。

「ああ、この人は、一生、出世せんなあ~。。」と言う事がわかる。

お金をケチって、他人に対して何のサービス精神がない人間は、な~んも良い事は人生に起こらない。

そんなのを贈って平気で言るくらいなら、何も贈らない方が、立派な、「不義理人」のままでいい。

どちらも、大した人生にはならないが、自分が”不義理人”だと思っていない分、まだマシな方ではあるだろう。

とは言え、さすがにお盆ともなると、義理義理のお中元も親戚筋には必要ではある。

これは、まあ、意思とは関係ない義理の世界ではある。

先生、先輩、上司と言った世界への贈答品は、義理ではあっても、多少の金額を掛ければOKではないか。

義理である上に、さらに、その辺のスーパーで調達した千円以下のものを「ほれ!」と渡されて、何が嬉しいか。

それくらい自分で買うわい!

それくらいは、気軽に買えないなあ、と思うのを上げるから、贈答品として嬉しいんじゃないか。

だから、安いものであっても珍しいものであればいいし、何の気持ちもないなら、せめて金銭だけは掛けた方がいいのではないか。

若い頃から、ちゃんとしたお中元をする人は、ちゃんとそれにふさわしい人生を送るようになっているから不思議だ。

これは、その人自身が、そうした贈答品にふさわしい人間になろう、と言う気持ちを持ち続けるからではないか、と思う。

その辺の駄菓子屋程度の品物で済ます人間は、自分自身は、そうした人間のままでいい、と思っているからではないのだろうか。

(もちろん、そんな気配りとマメでない人間が、女性にモテるわけはないから、彼女いない歴10年は、あっと言う間ではある。モテる人は、プレゼント・マニアでもある。もちろん、彼等は、レアのものをマメに足を使って見つけて来るから、高級品というわけでもないが、この調子で、女性へのプレゼントもお手のもんである。)


ああ、メールの紹介を忘れていた。



『ジャズは途中で参加できることが大切なんですね。
先生の音感本もそういう助けにもなってくれるはず!少しずつ取り組んでいきます。
先日の日記は胸に刺さりました。
自分のことと思って精進します。

(中略)


先生の音楽をちょっと聞かない期間をしばらく作ってからまた聴いたら改めてその存在感あるプレイに惚れました!
国内外ギターでこんなに存在感ある演奏を僕は知りません。
まだまだ僕に音楽の良し悪しは正確に判断できませんが、超一流のそれにも何らひけを取らないしむしろ上を行ってると思います。

トリオのアコースティックも第2集のエレキもその他全て圧倒的な気のこもる音で感動してしまいました。

(参照「作品集」:http://www.tomoyosejazz.com/sakuhinsyu.html#2

道具のギターもテーマの曲も全て越えて先生の演奏ならなんでも聴いて見たい、やはりオリジナルはなお良いと感じました!

管楽器などの単音楽器も先生が気合を込めた一音には逃げ出しますね!
本当に最高です!

先生のサイトを発見できて本当によかったです。
うーんありがたい!

毎回愛情あるありがたいコメントの数々ありがとうございます。
これからも進化していきたいのでご指導よろしくお願いいたします。』(東京在住、生徒A、26歳)


これだ!

これくらい、師匠をヨイショするスピリッツが、生徒には大切である。(嘘はプロファイリングして見抜くけど!)

こうした事ができない、というだけで、人間の人生は、正反対な方向に向かってしまうわけだ。

もしも、次の人生でも人間として生まれたら、ぜひ、今度は、素直になって、試してみたらいい。

でもまあ、ネズミに生まれ変わったとしたら、次の人生へ向けてのネズミとしての寿命が終わるまで何十年も掛かるかもしれない。

不幸なのは、この場合は、人間の人生が連続していないので、今回の贈答品の事とかもすっかり忘れてしまっている、という事だろう。

たぶん、前世がネズミか何かだったから、今世では、上手く人生を運ぶコツを忘れてしまっているのだろうとは思う。
だから、今世で、大した気配りができなのだろうと思う。

こんな事言うと、すぐに「どうせ、自分は、ネズミですよ!」と、ヒネくれてしまう若者だらけではあるけど、まあ、まあ、まあ、そんなに怒らずに。

まだ、あと50年ばかりは生きるんだから、ヒネくれてばかりいても、彼女ができないと覚えば、もうちょっと自分を変えられるんじゃないか。

私自身は、歳を取って来たので、そろそろ「仏教であなたも1週間で良い人になる本」でも買って、人間修行でも始めないといけない。

人間、歳を取れば(30歳くらいからは、、)、みんないじわるで頑固で、偏屈にしかならないからだ。(この話は、前回したな。。)

ちゃんと人間修行した年寄りだけしか、”良い人”にしかなれない。

おとぎ話では、必ず、いじわる爺さんと正直爺さんが出て来る。

あれは、あの当時、いじわる爺さんしかいないかったから、”正直爺さん”の話でもしないと、世の中の爺さんの”いじわる”が治まらない、と思ったからではないか。

世の中が、”正直爺さん”だらけなら、わざわざ、正直になると、こんな素晴らしい事が起こるよ!、、なんて話を聞かせる事はない。

世の中は、常に、いじわる爺さん、婆さんが、主流だから、ああした、おとぎ話で、その行いを戒めたのではないか。

若者は、親や大人に甘えてばかりいず、もっと、そのことを知らないといけない。

これも”危機管理”の一つではある。

まあ、過保護な環境では、世の中のそうした冷たさも感じないわけであるが、元々、家族というのは、そうした世間で、冷え切った体を温めるところではないか、と思う。


PS:

今日もブログを更新してしまったが、ついに、音感本の第2弾の執筆を開始するつもりである!
期限は、来年1月までだが、来年までは持ち越したくない(正月に遊べない!)

今度は、さらに簡単な音感本を!という事で、じゃあ、子供の音感トレーニング本か?と言ったら、「子供の音感トレーニング本なんか書いたら、既得権を持った音感教育界から、ますますの嫌がらせが起こりますよ!」という事で、子供の救済は、諦めて、引き続き、大人のための音感本になった。

音楽教育界に雇われた音感の事を知らないゴルゴ13に”悪人”として射殺されるのは嫌だ。

音感本は、まだまだ、初級、中級、上級と書き足りない事だらけではある。
次回は、さらに初級で基礎編と言う事になった。

一応、ミュージシャンなので、本当は、CDを制作したいのではあるけど、まあ、人生は、需要次第であるから、必要としているのであれば、良いとしている。

ミュージシャンではあっても、まずは、生きる、という事が、仕事である。

生きていれば、いずれ、音楽もできるからである。




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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │修行&音楽