2011年08月12日

武士道と儒学、旦那芸とプロの芸、甘えの人の末路

げ歳を取ると、人間が丸くなる、と言う風に一般的に言うが、どうもそれは怪しい。

私見では、歳を取ると、そもそも、反発する体力がないから、黙っているだけではないか、と思う。
何かを変えようと言う力よりも波風を立てないようにと現状維持を選ぶわけだ。

その辺から、国政に、儒学的な思想が利用されている。

年寄りを敬え、という思想だ。

そもそも、先に生まれれば、誰しも年長者になれるわけで、その「質」も問わずに、誰でもいいから年長者を敬えなんて思想を持ったらどうなるか。

広大な国を治めるためには、国政に不満を抱く血気盛んな若者の造反を制圧しなくてはいけない。
そこで利用されるのが、親孝行の奨励である。
平穏無事、現状維持を好む年寄りの言う事を若者が聞いていれば、国家への反発心も鎮圧できる、という思想だ。

これでは、単純に、武士道と同じ、アホ主君に従うための奴隷思想を植えつける事にしかならない。
この思想のおかげで、武士道が完成した江戸時代は、260年くらい続いている。
江戸時代が崩壊したのは、外国からの圧力に対しての反応でもあるので、武士道や儒学が崩壊したわけではない。

現代は、単純に、「尊敬に値するから尊敬する」という考え方の方が、年長、年下に関係なく正しい上下関係ではないかと思う。
そうでなければ、歳と共に、学ぶべき事がどんどん減って行く事にしかならない。

そんなお年より事情もわからず、年寄りは、良い人が多い、という何の根拠もない考えにしたがって、甘えを振りまいている若者も多いわけだ。

よく、若者は、我がままに振舞っている、というが、社会に出て、我がままに振舞って生きて行けると思っている若者の方が、そもそも、親の教育の失敗なんじゃないか、と思う。

世の中に出れば、「甘え」なんて許されない。
すべてが、「敵」だ。

ちょっとでもヘマしたら、みんな足元をすくう、鬼ばかりが、暮らしているのが世の中ではないか、と思う。
まさに「渡る世間は鬼ばかり」である。

そんなことはない!と言う者がいたとしたら、まあ、よっぽどのKY人間か、良い大人との出会いがあったんじゃないか、と思う。
たまたま、でたらめしても、許してくれる、良い「大人」に出会ったんじゃないか、とは思う。

大分、昔のテレビなのだけど、もう、10年以上前か、もっと前だったか、中学からグレた、という男性がいて、まあ、相当、親に迷惑を掛けたのだろうと思うのだが、20代になり、結婚し、改心した、と言うので、親に連絡を取ったが、両親が、断固拒否している、というケースがあった。

父親ならまだしも、母親までも、拒否しているのだ。
両親は、当然のように息子のおかげで、同じ所には住めず、転々とした暮らしを余儀なくされてしまったわけだ。

暴走族、少年院は当たり前、と言ったところだろう。
そうした中、両親は、ついに限界を超えた息子の行動に、すべての責任を放棄したわけだ。

世の中にこんなこともあるのか、と思ったら、あの事件を忘れていた。
親にも嫌われ、小学校に乗り込み、無差別殺人をした男がいた。(宅間守、という名前を忘れるか、一生、覚えているか。)

こうした事は、世の中は、たとえ、親だとしても限界を超えたら、その責任も放棄されてしまう、という事を示唆しているわけである。

(もちろん、すべてが、親の教育になんらかの関係がある事は確かである。まだ、先天性の殺人鬼がいるとは、証明されていないはずだ。)

しかし、優先順序としては、その許容範囲が大きい親に、まず甘えて、その代わり、他人には、甘え禁物で、もっと気を使わないといけない。

教育論的には、幼児は、十分に親に我がままをぶつけ、甘えが受けいられているからこそ、親以外の他人に対して、人は丁寧になれるのではないか、というが、この辺、甘やかされ過ぎとの境界線があいまいではある。

他人に迷惑を掛けるのは、親からの愛情不足、というわけである。
親の愛情が中途半端だから、他人に対して、好き勝手な甘えをぶつけてしまうのではないか、というわけだ。

まあ、この境界線は、微妙なところではあるが、教育は単純に甘えを受け入れると言う事でもない。
ちゃんとした「躾(しつけ)」をする、というのが親の役目ではある。

それなのに、現代は、その「躾」を放棄した親が多いのか、そんな態度を親以外の人間にしたら、社会生活は終わりじゃないのか?と言う若者も多い。(若者以外は、すべて手遅れだから、ただの変人、性格破綻者である。)

現代では、そうした「躾」の役割を会社の上司や先輩が受け持っている、というわけであるが、どこも、びっくり若手社員だらけではある、という。

少子化の時代だから、昔と違い、さほどの競争社会でもないのだろう。
どこの学校も経営不振だろうから、大抵の入学試験には合格するはずだ。

私の中学生の頃は、1クラス44~46人くらいいて、1学年で、大体、16クラスあった。

小学校でも、1クラス、それくらいの人数で、1学年6クラスはあった。
小学校は、全6学年だから、45人の6クラスが6学年だから大体、1620人の児童と言う事になる。(45×6×6)

中学だと、45人の16クラスで3学年だから2160人になる。(45×16×3)

こうなると、何をするにも、競争、競争、競争社会である。

現在は、それほどのマンモス校もなく、同じ学校だと言うのに、1学年、2、3クラス程度で、1クラス、20人くらいじゃないか。

世の中は、信じられないくらいのミニ・サイズな社会と言う事になる。
そうなると、全員、家族のような村の分校みたいな感じになるのか。

すると、世の中の厳しさは、バイト先や会社が教育する事になる。
実際、その教育審査に合格する事ができない者がリストラされたり、干されたり、という事になるのだろう。

そんなわけで、今の時代は、ちゃんとした挨拶もできない若者が大量に社会から放り出されてしまっているわけだ。

彼等にとっての社会は、家族社会しかない、という事になる。(少子化のクラスは、家族のようなもんだろう。)
家族社会と他人だらけの実社会を混同しているわけだから、他人の前でも平気で甘えを出すわけである。

そんな態度では、会社でクビになるんじゃないか?と危惧していると、やっぱりクビになる。 (その前に自分から辞めるパターンも多い。だから、会社は、大喜びではある。)

さらには、現代の若者は、厳しくすれば、すぐに逃げ出してしまう、という事から、繊細で、甘えた幼児のような精神構造の者が多数派ではある、という。

逆に言えば、そこに気づき、そうした甘えから脱出する事ができた者は、どんどん出世する感じがある。
周りが、意思薄弱なダメ若者が多いから、挨拶もちゃんとして、ぴしっとしていると、目立つわけである。(女性もほっておかない!)

私は、商売上、態度や言動には、さほど注意しない。
生徒とは、月2回しか接する時間もないし、あれこれの問題にまで触れていては先に進めないからである。

挨拶をしなくても、態度が悪くても何も言わない。
そんな風な感じでは、何も成功事は起こらないとは思うけど、そんな事もできないのは、家庭の教育の問題もあるし、そもそも、それで成立する環境の中に生きているのだから、とやかく言っても始まらないだろう、と思うからである。

(そういう環境の中にいる人間が、顧客となっているわけだから、そういう環境を否定したら、顧客にならないって事になる。)

私が何も注意しない事で、仕事ができているわけだから、何も言わない方がいいだろう、と思うわけである。
挨拶もちゃんとできなくて、学ぶ態度もできていなくても、その人は、それで、生きていて、私と関わっているわけだから、いちいち、こちらから注意しても、商売上、良くないだろう、と言う考えである。

レストランに入って来た客に、いちいちオーナーが、「あなた、挨拶もしないで入って来ましたね?」と言うレストランが、繁盛するわけがない。

オーナーにとっては、いちいち、その客が、出世するか、しないかは気にしないだろう。とにかく、ちゃんと普通に代金を払って帰って行けばいいだけである。

また、多少の傍若無人ぶりも、お客さん、という事で許されるはずだ。

もちろん、その中の客から、「私は、ちっとも出世もしないんだけど、何か理由がわかるかな?」とでも聞かれたら、いくらか答えるとは思う。

「まず、お客さんは、存在そのものが、暗くて不愉快だよねぇ~!」とまでは、言わないかもしれないけど、基本は、そんなもんだろう。

まずもって、世の中の他人は、みんな商売だから、その客を放置しているわけだ、という事がわからないといけない。
みんな、お金のために頭を下げているわけだ。

そうでない、という人たちは、オーナーと客、という関係を越え、みんな私生活でもつきあいがある関係にまで発展しているわけである。

これが、落語家や芸人の世界では、弟子は、師匠の身の回りの世話といった私生活でのつきあいをする事で多くの事を学んでいるわけだ。

もちろん、ああした世界の師匠は、その代わり、弟子たちから月謝を取り立てるどころか、逆に「こづかい」を上げる立場でもあるが、基本的には、そうした中で芸を指導して行くわけではある。

そうした弟子たちとは、区別した形で、月謝を取っての弟子とかもいるわけであるが、現代は、これが主流の弟子、という事になる。

三味線なんかの師匠なんかが、こうした弟子と言うか生徒さんたちをおだてながら指導するわけだ。

厳しい指導をすると、こうした一般の生徒は、着いてこれない、と言う事は明白だから、かなり甘~い指導をせざる得ない。

厳しくすると逃げ出すわけだ。
それで、テキトーなところで、「たいへん、よくできました、では次の曲にしましょう」と言う稽古になる。

この方式で、学んだ人が、宴会で、プロの芸者さんの三味線伴奏を買って出て弾くのだが、実際は、調子っぱずれで、踊り辛い。

しかし、その人は、師匠に習った芸として、得意気に弾いているわけである。

これを「旦那芸」と言うらしい。

こうした旦那芸の人が、プロの歌手の伴奏をするようなものでもある。

そういえば、私にも経験がある。

もう20年ばかり前の事か、帰郷してすぐに、遠方のライブに呼ばれ、ようやく、指定されたレストランにたどり着くと、何か、妙である。

見た事もないアルト・サックス奏者がいるのだ。

こちらは、ベース、ドラム、ギターの3人。

このライブをセッティングしたベーシストの知り合いのようだ。
サックス奏者は、こちらへ、挨拶するそぶりもない。

こちらは、こちらで、ライブと言う事で、バンマスとして用意していた曲があるのだが、1曲やると、そのサックス奏者が跳び入りして来た。

そして曲を言って吹き出したのだが、大した実力でもない。

すると、「がんばってぇ~先生!」という女性客集団の声が掛かる。

何曲か、その先生に言われるままに曲を指定して来て、吹き終わったら1ステージが終了。

休憩中、判明したことは、どうやら、この人は、近所の歯科医の先生らしい。

今日は、この先生が、主催してのライブだったようだ。

私たち3人のプロを自分のライブのバックバンドとして雇ったわけである。

これをベーシストが勝手に許可して「お仕事ライブ」としていたわけだ。

私は、当時、まだまだ、血気盛んでもあったので、とにかく怒りにまかせて弾いていたように思う。
得体の知れない怒りではあるが、分析すれば、そこまで「奴隷根性」の仕事をするかなあ、と思ったわけである。

ちゃんと私の名前も出してのライブだと言うのに、実質は、この先生のライブであったわけだ。お客さんも、私になんか、一切興味もない、その先生の病院の歯科衛生士と、その関係者ばかりである。

まあ、こちらは無名なので、お客さんなど、こんな遠方では集められないのは確かではあるが、そこまでしてライブなんかするかなあ、とは思った。

バンドマンのお仕事なら、それはそれで、無名でやるべきであるからだ。

ああ、あの先生サックスが「旦那芸」と言うやつか、と、今、思い知るのである。

そう考えると、現代の習い事と言うのは、すべて「旦那芸」である。

三味線の世界でも、プロになるための稽古と言うのは、大変、厳しい指導になるわけである。
1曲に半年を掛けるなんてのは当たり前であったりする。

しかし、一般の生徒にそんなことをしていたら大変だ。
とてもそんな忍耐力も研究心もない。

だから、どんなに長くても1ヶ月と言った所だろう。

私の教室でもプロの生徒には、ある程度の厳しさを要求するが、一般の生徒には、プロと同じ厳しさを要求する事は控えるように最近は、している。

特に、音感本を出した事から、実際にこれまでの生徒に音感教育を施そうか、と試みたが、やはり、強要すると嫌がる傾向にあるので、これも廃止する事に決めた。

紹介程度にとどめて、実践は、求めない事にした。

強制されると、自分は、楽器を上手くなるために通っているんで、歌なんか歌いに来たんじゃない!というような感じになるのだろう。

そのため、これからは、プロだけを対象に音感トレーニングを実施することにした。
幸い、プロの歌手(女性)がいるので、音感トレーニング・メソッドは、歌手の指導の際に適応する事にしている。

プロの生徒は、仕事上、挨拶もきちんとできるし、厳しさにも耐えて来た経験があるから、多少の罵倒も平気である。

実際の現場では、「これくらいの事ができないのか!」と言った、怒鳴り声にも耐えて来た連中ではある。
一般の人が、そんな怒鳴り声にあったら大変である。

現代の若者なら、すぐにヒネクレて、無言で部屋を飛び出して、それっきりになるだろうし、あるいは、それが原因で、ウツ病になり、引き篭もりになってしまうかもしれない。

そうした厳しさでも、プロの生徒なら、大丈夫だ。

逆にプロの生徒を甘やかせてしまうと、生徒自身が、現場で、酷い目に遭ってしまう事になるから、これは、厳しい稽古が、優しさにつながるわけである。

プロの生徒へは、「あれができるか?これができるか?」と要求する稽古となるが、一般の生徒へは、この方式は通用しない。すぐに自分の無能さに自己卑下しヒネクレてしまう傾向にある。

どうせ、自分なんか、何をしてもダメだ、という感じになってしまうので、厳しくはできない。
この点では、一般対象の教育というのは、幼児教育と基本的には変わりない。
幼児は、言葉が通用しない、という違いがあるだけではある。

だから、一般の生徒へは、すべて自己申告方式に切り替えないといけない。こちらから「あれができるか?」と要求してはいけないわけだ。あちらに「何ができるのか?」「何をやりたいのか?」と尋ねて、それをやる方式にしないといけない。

まあ、それでも、一般の生徒は、これと言って自信がある曲があるわけでもないので、そう聞かれても黙ったままではある。

これと言って、何の希望もない幼児型の生徒もいるわけだが、これなんかは、人生に対する希望と同じで、これと言って、こうしたい、という願望がない。

だから、何年経ってもそのままではある。

これに対して、とやかく注意することができないのも、前述のレストランのオーナーと客の関係でもある。
けっして、師匠と弟子の関係ではない。

これが、弟子なら、まず、挨拶から学ぶ態度、姿勢、お中元、お歳暮と、厳しい躾をするわけである。
しかし、こうした事は、基本的には、家庭の躾から来るものであるから、親に甘えて暮らしている内は、そうした修行も難しい。
お寺でも、ちゃんと出家させて修行させられるはずだ。スポーツ系であれば、合宿とか、あれこれの寄宿生活がある。

私なんかも17歳くらいの頃に、富士山の麓にある某施設で、3ヶ月ばかり修行させられた経験がある。
午前4時起床と同時に真冬の風呂場での冷水被りの行から始まり、そのまま、寒い中、マラソンがあったりと、そうやって一日が始まり、あれこれの勉強があるわけだ。

そこで、言われた事で覚えているのは、「ここで、どんなに修行しても、家に帰ると親自身が、ダメだから、結局、また元に戻ってしまうんだよな。」と、指導の先生たちが言っていた事だ。

せっかく挨拶を覚えても、家に帰ると親自身が挨拶するわけでもない。親自身は、何の修行も積んでいないから、何の実践も伴わないまま、子供にだけ指図する事になる。

子供は、そうした矛盾に敏感で、結局は、学んだ事が活かせないので、研修も無駄になる。

特に、自己を卑下するなんてのは、どんだけ~甘やかされて生きてんだあ~、という事にはなる。
矢沢永吉氏の「成り上がり」で人生を変えて行くタイプは、自己卑下なんか無縁だ。

みんな、強烈なハングリー精神で、上昇志向も強く、打たれ強い。
それだけ、出発点からして、甘えた環境ではないわけだ。

風邪さえ引けない環境だから、身体も丈夫にならなくてはいけないし、また、風邪を引いたからと休む事もできない。

そうした世界をひっくるめて、すべてから、成り上がりたいわけである。

私なんかは、16歳から親と一緒に暮らしていないせいか、孤児院で育ったタイガーマスクの気持ちも少しわかる。

親切で優しい大人なんて基本的にいるわけがない、と思って生きて来たから、世の中は、インチキくさい大人だらけだと思ったし、だからこそ、自分だけは、そんな風にはならないでおこう、とは思ったわけである。

ところが、私の考えは、そう思っている私のような若者にだけしか通用しないわけで、実際に甘えだらけで生きている若者には、全く通用しない。

どこの世界でも同じだが、甘えた若者は、すべての存在が、「当たり前」と思って生きているわけだ。
自分は、そうした「当たり前」の教えを受ける権利がある、と錯覚するわけだ。

もちろん、そうした考えでしかないから、何をしても成功までは至らない。

世の中の人間関係は、基本的には、”一期一会(いちごいちえ)”である。
すべてが、生涯に1度切りかもしれない関係である。

だからこそ、人との出会いを大切にするし、会った人のすべてを大切にしようと思うわけだ。
そこに挨拶もあるし、相手を不快にさせないようにの配慮もあるし、これが、ライブ演奏なら、サービス・アンコール演奏もあるわけだ。

これを一切、無視して生きているのが、幼児でしかないわけだが、彼等は、持って生まれた”かわいらしさ”という武器があるから、それが許されるわけではある。

これは、成人でも、”イケメン”なら同じ条件だろう。

(キムタクは、対人に対して、多少というか、かなりの失礼が許されるわけだが、キムタクである上に、さらに丁寧に人に応対していたとしたら、これはもう、鬼に金棒であるし、勝てるわけがない。)

こうした点からも、自分は、幼児のように愛くるしい存在でもなく、キムタクのようなイケメンでもないな、と思うのなら、何でも当たり前に、世の中は、自分にサービスするように存在すると思わずに、ちゃんと、出会う人、出会う人にきちんと挨拶し、相手に不快感を与えないように、ジョークの10や20も飛ばし、贈答品、年始年賀も欠かさずに毎日を送ってみてはどうか。

他人にサービスされることばかり考えずに、他人をサービスする事を考える事だ。
そうすれば、彼女いない歴、5年、10年、20年、30年も解消されて、もっともっと良い人生を送れるのではないか。

メールの返信が遅い人間は、出世しない、という考え方には、これは、納得である。
人と関わるためには、何の努力をせずとも、世間は、自分に関心がある、と思っているのだから、哀れと言えば、哀れではある。
そんな人間が、幸せになったためしはないなあ、とは思う。

基本的には、ゴミ屋敷孤独老人と変わらない若者は、まだまだ、たくさんいると思う。
たぶん、ゴミを親が片付けてくれているから、気がつかないだけだろう、と思う。

自分が、大したイケメンでもないと思ったら、朝、目が覚めてから、眠るまで、家族以外の出会う人、出会う人に喋りに喋りまくって、メールをしまくって、しまくって、いつでも、人を喜ばすことばかりを考えて、そうこうしている内に一日が終わり、くたくたになって寝て見てはどうか。

黙っていても、自分は、世の中の人から愛されているなんて思っているとしたら、親元を離れ、知らない土地にでも行って暮らして見る事だ。たぶん、その土地で、孤独死しているだろう。

これは、動物ならなおさら明白ではないか。

鳴き声を出さない、自分の巣で過ごすだけの小鳥がいるとしたら、どうか。

あの時、二十歳だった男は、あっと言う間に40歳になってはいるのだが、彼も相変わらず、何も喋らずに、毎日、部屋で一人過ごす時間ばかりだ。

こういう人は、こうなる、とわかっているのだけれど、それがわかったからと言って人生は、どうなるものでもない。
ただ、黙って、それを見ているだけである。
みんな自分を変える気がないんだから、仕方ない。

10年くらい、自分の人生は、何も変わらないなあ、思う人は、騙されたと思って、今日の話を実践してみたらいい。
そもそも、1週間も何もなければ、大騒ぎして良いのではないか。1ヶ月も何もなくても平気な人間は、10年なんかあっと言う間に経つ。

トップ・モデルは、0・5キロも太ったら大騒ぎであるけど、元々、肥満な人は、5キロくらいでも気にしないのに同じか。
1週間も何も起こらない人生なんて考えられない、と思う者にしか、人生には色んなことが起こらない。

そんなわけで、私自身は、挨拶しないとか、態度がどうのこうのとか、別に、注意しないから、そのつもりで!。
すべては、自業自得だと思う。

人生は、ヒネクレている時間なんかない。
ただ、行動し実践するだけである。

1週間も何もなければ、大騒ぎして良いのではないか。

これを当たり前と思うから、10年経っても何も起きないのではないか、と思う。


PS:今日は、お盆の初日(ウンケー:お迎え)。
初日は、どうでも良いのが、普段の習わしではある。
本格的には、最終日(ウークイ:お送り)の14日、日曜日が大事ではある。
年に2度ほどしか会わない親戚筋との儀式である。




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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │修行&音楽戦争と平和