2011年05月29日

こころの時代の時間と台風

NHK 「こころの時代:宗教・人生~」”命の世界に枠はない”(5月7日「土」)を見た。

この番組のテーマ曲は、「こころの時代のテーマ」ということで、今、日本での超売れっ子BGMピアニストの”ウォン・ウィンツァン”という名前の日本人がやっているという。

どう聴いても、ジャズの名曲、”POLKA DOTS AND MOON・BEAMS”の曲にコード進行とメロディが、全32小節中の4分の3に当たる、24小節分に基本的には同じだ(8小節のメロディが3回繰り返されるだけである)。

以下は、原曲でないか、と思われるポルカドッツの曲をジャズ・ピアノの巨匠、ビル・エバンスでの演奏。

http://www.youtube.com/watch?v=4NTxWQfMSsA


プロの作曲家なら、原曲があれば、そのバリエーションは、いくらでも作れる。
問題は、この作曲家が、「ポルカドッツ」を知っている、ジャズ系の人かどうか、という事になるのか。

ジャズに通じている人は、確認して見るといいだろう。
あまりにも露骨な”パクリ”な曲なのに、なぜか曲のタイトルがないので、昔から気になってしょうがない。

これでいいなら、プロならいくらでもBGMは作れるとは思うからではある。

以下が、そのテーマ曲。
一応、タイトルは、「こころの時代のテーマ」となっている。

http://www.rakuten.ne.jp/gold/blue-moon/music/wong/umiyoritoku.html


さて、今日のテーマは、そんな事ではない。


ちゃんと番組の内容を学んだ、そのレポートである。


托鉢者、石川洋(昭和5年生、80歳)氏にあれこれと聞く話である。

托鉢者と言うが、基本的には、18歳で出家した、お坊さんだと思う。

50歳の時に世界平和会議の人権部会でアジアの問題に関わり、その後、市井の一托鉢者となる。

現在も週3回の人工透析を受けながらも日本やアジアの人のために独特な托鉢行を続けている。

石川氏は、京都、一燈園創設者:西田天香(にしだ・てんこう:1872~1968)氏の最晩年の弟子

ききて:金光寿郎

場所:滋賀県、長浜市、(師匠の西田天香氏の出生の土地、商売の地)賎ヶ岳、琵琶湖、


冒頭から、一遍上人(いっぺんしょうにん)にあこがれる詩人の詩が紹介される。


”眼(まなこ)が光るまだまだ駄目
額が光るまだまだいかん
足の裏から光が出る
そのような人こそ
ほんとうに尊い人である

真民(しんみん)よ
足の裏的仕事をし
足の裏的人間になれ

坂村真民(詩人)

一遍上人((1239年3月21日 - 1289年9月9日〈新暦〉)に捧げた、坂村真民氏の詩

石川氏は、今回の震災を見て、思い出した2つのエピソードを紹介する。

一つは、映像で見たある、おばあさんの話。(「幸せさんいらっしゃい”おばさん”」と呼んでいる。)

そのお婆さんは、満州の開拓民として渡り、そこで結婚。旦那は招集されていない。

満州で、小学校の女の子供を一人亡くす。
お骨にして持って帰る余裕はないので、氷ついた土を若い衆に手伝って掘って貰って、そこに娘の死骸を入れて土に埋めて、日本へ帰って来る。

それからその悲しみがずっと消えずにいた。

しかし、ひょんな事から、亡くなった子と同じような年齢の子供の世話をするようになる。

しだいに、そうした日々の中で、安らぎを覚えて来る。

すると、ある日、亡くなった子供が夢に出て来て言う。

「お母さん一つも心配することないよ。今、私は仏様に抱かれている。だからお母さん、今の仕事を一生懸命やってください。私は幸せです。」と。

おばさんは、夜が明けると雨戸を開け、外へ向かって「幸せさんいらっしゃい~!」と言う。

映像では、最後に、おばさんは、「みんな幸せなんですよね!」と言ったという。

悲しみの悲嘆にくれず、世のためになるように生きること、自分は、生かされているのだと思い生きることが大事だ、と説く。


二つめはあの「リンゴの唄」の並木路子。

「リンゴの唄」(1946年1月レコード発売、年内に12万5000枚を売り上げた)


『並木 路子(なみき みちこ、1921年9月30日 - 2001年4月7日)は、日本の歌手。本名は南郷 庸子(なんごう つねこ(旧姓:小林))。東京浅草出身、台湾育ち。戦後の混乱期に歌った「リンゴの唄」が爆発的なヒットとなり日本の代表的歌手と評されており、「リンゴの唄」は、歌謡史のみならず日本の歴史に残る歌となった。尚、芸名並木路子は、ミス・コロムビアの「並木の雨」と、歌詞に出てくる、並木の路に~の「路」に子を付けたもの。

1945年(昭和20年)3月9日、10日の東京大空襲で母親を亡くしている。彼女自身も、左目を痛め、後遺症となった。その他、次兄と父も戦争で、乗艦していた船がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され死亡している。その上、立教大学の学生で初恋の人上田四郎氏も学徒出陣による特攻隊出撃で亡くしている。よく「親類を戦争ですべて亡くした」という記述を観る事があるが誤りで、当時既に結婚していた姉と長兄(ただし東京大空襲当時は音信不通状態にあった。戦後しばらしてから復員。)は無事であった。(以上、「並木路子」Wikipedia より)』

「リンゴの唄」には、秘話がある。

『「リンゴの唄」(りんごのうた)は、第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇。並木は映画『そよかぜ』の主演であり、霧島昇も『そよかぜ』に出演している。

サトウハチローがこの詞を作ったのは戦時中であったが、「戦時下に軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされ、戦争終了後に日の目を見た。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦によって憔悴しきった国民の心を癒される楽曲と評価され、空前の大ヒットとなった。2007年(平成19年)には日本の歌百選に選出されている。

「リンゴの唄」吹き込みの際、作曲者の万城目正は度々ダメを出し、「もっと明るく歌うように」と指示した。しかし、この注文は当時の並木には酷で、並木は戦争で父親と次兄、3月10日の東京大空襲で母を亡くしていたため、とてもそんな気分にはなれなかったのである。その事を聞いた万城目は、「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれたという」(以上「リンゴの唄」Wikipedia より)』


なぜ断るのか、と言われた並木路子は、東京の大空襲での話をする。

年老いた母の手を引いて逃げた。

ところが、戦火の東京は、熱くて熱くて、たまらず、母親が、墨田川に身を投ずる。

とっさに、川に身を投げた母親の襟首を掴んで、片方の手は、堤防の草の根を掴んで耐える。
しかし、段々と意識がなくなり、堤防の草を掴んでいる手もゆるんで来る。

そうやって意識が薄れて行く中で、母親の襟首を掴んでいる手がゆるくなって行く感覚が、その後もずっと手の感触として残っていた、という。

気が付いたら、墨田川の反対側の岸の方へ並木は流されて救われたが、母親は、東京湾の方へ流れて行く。

これが、母との最後の別れ。

その悲しみを並木はずっと心に抱えたまま戦後を生きた。

そういう事もあって、「先生、私は、こういう明るい唄を歌えない」と言うと、サトウ・ハチロー氏が、「あんたプロだろ。あんた、どう思っているか知らないけど、今、日本の国民は、みんな同じような苦しみを持っている。ひょっとしたらあんたよりは、もっともっと辛い人がいるかもしれない。プロだったら、その人のために歌うべきじゃないか。」と言われたそうだ。

(以上は、石川氏のサトウ・ハチロー氏の言葉の表現である。)

それで並木は、初めて目が覚めた、と。

「先生、喜んで歌わしていただきます」と述べたという。

それが赤いリンゴの唄だという。

(Wikipedia では、先生が、作曲者の万城目正氏にはなっている。)

石川氏は、並木とも知り合いになった事があるそうで、彼女から直接、この話を聞いている。

並木は、若い頃、食べるために小さな店をやったりする人の多い中、介護の仕事をしていたそうだ。

この点から、並木路子は、日本の介護の草分けの存在でもある、という。

この並木路子さんと幸せおばさんの共通点は、悲しみを抱え、「人のために尽くしている」という点でもある。

若い頃、石川洋氏は、人が人を殺す、という事の意味がわからない、として西田天香氏に弟子入りしている。

その悩み、問題を西田氏に向かって話した際、西田氏は、黙って”吸い取り紙”のように話を聞いてくれたそうだ。

話を聞いて、西田氏は、「あなたの苦しんで来たことは大切なことですよ」と答えたという。

そこから、石川氏は、”聞くこととは、絶対の信頼である”ということを学ぶ。
初めて、自分の苦しみを聞いてくれた人だ、と言う。

その時、天香氏が、言った言葉を石川氏は、筆にしている。

(番組では、石川氏が、感銘を受けた色んな言葉を、直筆で色紙に記している。自分の名前はない。言葉を言った人の名前だけが最後に記されている。)


”偉い人にならなくていい

立派な人にならなくていい

人間は人のお役に立つ人になることである(天香さんの言葉)”


この言葉を聞いて、その場で弟子入りしている。
その時、頭を下げた際の畳の目を今でも覚えているという。

しかし、”お役に立つ”という意味は、漠然とわかるが、はっきりとは、当時、わからなかったという。

それから、自分と同じような年齢の者たちと修行生活が始まる。

その時、初めて、山から木を下ろして薪にしている場所を通る。

みんなにご挨拶すると、みんな、ようお越しになりました、と答える。
その雰囲気が、あまりにも自然で、おだやかで、肩に重さがない。

なんで、私のような(18歳)青年たちが、みんなこんなに安らかで、明るいのでしょう、私は、不自由しましたのに、と天香さんに聞いたという。

これがその時の言葉だという。

”求める心は淋しい。捧げる心は豊かである(天香さんの言葉)”

ああ、人のお役に立つ、という事は、自分を捧げる事なんだ、と気づく。

ここに入るには、難しい試験は何もなかったが、他の人は、みんな天香氏から「死ねますか?」とだけ聞かれたという。

しかし、最後の弟子となる石川氏には、何も言わなかったそうだ。

その時、天香氏が80歳近い年齢で、石川氏は18歳。

天香氏は、「わかった、私が預かろう」とだけ言われたそうだ。

弟子の中でも「預かろう」と言われたのは、自分が初めてではないか、という。

ずっと親不孝をして来た自分の最後の「縁」ではないか、という。

しかし、自分の生涯は、お役に立つ人、それは求めることではない、捧げることに生涯を尽くすことである、とその時から石川氏の生き方が決まる。

それが、天香氏と自分の出会いだという。

お役に立つ、という事での一燈園のやり方は、裸で生かされる、という事。

具体的には、下坐行(げざぎょう)「行願(ぎょうがん)」が基本。

他人の家に行って「お便所のお掃除をさせていただきませんか?」と歩く行。

これが、下の坐の行。

その中で、自分を磨き、人様に奉仕をする基本を学ぶ、という。

そこから、人とのつながりを求めて行く。

石川氏は、全国、沖縄まで、歩いて行った。

大事な事は、裸で、何ができるのか、お尽くしできるのか、という事。

”裸”と言うのは、何も持たない自分、という事だろう。

全国をそうやって旅していると、だんだん、コツがわかって来るという。

朝から今日はどこに泊まれるんだろう、お昼はどうなるだろう、と心配してもしょうがないという。

もう、運命をまかせ切ったら道は開ける、という。

自分の事を考えているから道は閉ざされる。

自分を捨て、人様のために捧げようと思ったら、道は開ける、という。

ききて(金光寿郎。石川氏は、金光氏を先生と呼んでいる。)は、「実践から、学んだから、それをわかったとしても、普通は、そんなことしてやっていけるのなあ、と思いますよね。それでも、その心は置いておいて、行を実践するのですね。」と念を押す。

「人間は、誰だって不安定なものです。どうやって生活すればいいのかを考えるのが当たり前だけど、まず、人様のために捧げることを先にすれば、お互いに活かしあえる道が生まれて来るのではないか、これが、下坐行の道の一つの生き方ではないか。」と石川氏が説く。

「そこでは、好きなことをして、嫌いなことをしよう言うのは通らないのですか?」と、的を射た質問は、金光氏。

その事に対して、「それは、托鉢の指示とか、そうした責任にもなったりする立場にもなったりする中で、やるべきことができて来ますから、、。」、と石川氏が答える。

天香氏は、普通は、坊さんらしい「上人(しょうにん)」とか、「先生」とか、呼び名があるが、孫のような自分にも「天香さん」と「さん付け」で呼ばしていた、という。

戒名も「****西田天香さん」で通したそうだ。

そういう天香さんとの人間関係の中で、忘れたことがない話が二つある。

一つは、自分が、印刷出版の方の役目も持っていた頃の話。

そこで、よく働く、よくできた若者がいた。

よくできる人というのは、やっぱり、それなりの問題を持っている人だった。

それで、その青年が、同世代のみんなと上手く行かないので、天香さんに相談した。

天香さんの方から、その青年に物事の「良し悪し」を説いてくれたら、重みがあるので、お願いします、と申し出た。

すると天香さんは、何も答えない。

私のようないたらない人間の言葉よりも天香さんの方から言ってくれたらその青年も一つの道しるべになるのではないか、とさらに請う。

しかし、何度聞いても天香さんは、返事をしない。

良し悪しを教えないと他の青年が迷いますので、お願いします、と、さらに石川氏。

すると天香さんは、じっと石川氏の顔を見て、「あんた、それからどうするんだ?」と聞いたという。

「それからどうする?」とおっしゃったという。

自分は、その青年をどうしたら、その集団の中で、彼の持っている良さも含めて、伸びて行ってくれるのかと思っているけれども、実際の心の中では、自分は、この青年を「裁いていた」のだ、と気づく。

その時、「あんたのすることは、若い人を育てること」と天香さんは言ったという。

あんたそれからどうするんだ、と言った天香さんが、ポツンと言ったこと。

「大事な事は、若い人によく話を聞いて、若い人に教えてもらいなさい。それが人を育てることだ。」と。

その時の言葉。

”下の人に教えてもらいなさい。それが下の人を育てることだ(天香さんのことば)”

天香さんとの関係で、もう一つ。

天香さんは、霊堂で話しをする際は、上座に座らず、一番、下(しも)に座って話しをした。

神仏へ向かって話をしている格好になる。

弟子は、それを拝聴する、という形を取っていた。

教える、という姿勢は取らない。

ある日、「今日はな、一つ、めずらしい言い方をするが、みんな、ひとつ、”隣組”を作ってみないか?」と天香さん。

「天香さん、隣組って、戦争中の向こう三軒両隣、、の隣組ですか?」と弟子が聞いたら、そうじゃない、と言う。

「みんなな、あんたの座っている両側の人、なんでこんな人がいるのか理解のできない人がいるかもしれない。ひょっとしたら、苦手な人、理解のしづらい人がいるんじゃないか。それは、大変、不幸なことだよ」と天香さん。

「私は、こうしたい、と信念を持って間違いないと思って一生懸命やっていても、本当にしようと思ったら、あなたのタイプに合わない人、なんでこの人がいるんだろうか、と思っている人にいっぺん聞いてごらんなさい。」という。

するとその人が、「それはあんた、考えすぎだよ。これはこうじゃないか」と言ったりする。

「必ず、あんたが考えていることの中にあんたの我が、癖が、出ている。人に横車(道理に反してむりやり押し通そうとする)をしている事がある。大事な事は、それに気づくことが、道を歩むこと。」と天香さん。

石川氏は、この言葉を生涯忘れた事がないと言う。

正しいと思っていることは、自分だけの正しさであって、タイプに合わない人に謙虚に聞いてみる事で、そこから初めて、みなさんのお役に立てる、許された生き方ができるのではないか、と知ったという。

その時は、石川氏も若かったが、今は、先輩の方々が、みんな謙虚に話し合っていたのをなつかしく思い出すという。

現在の石川氏80歳。

隣組を作りなさい、意見の合わない人、タイプの違う人こそが、あなたにとっては、自分の道を歩むのには、大切な仲間である、という教えである。

”下坐(げざ)”という事は、身を降ろす、というだけでなく、謙虚になる、という言葉でもある、という。

人に学ぶ、という謙虚な心は、神仏の教えに訊く姿勢なんじゃないか。それが道を歩むことだ、と。

信念と言うのは、ゆるぎないことであるけれど、しかしてなお、天香さんは、謙虚であった。

「それは、相手に追随して行くことではないわけですね?」と金光氏。

それに答えて、名古屋の方の精舎での話しをする。

そこでの天香氏の100回目の講演の際、記念に何かお言葉を書いて、それを皿にしてみなさんに郵送して差し上げたい、と頼まれた際に書いた言葉。

”我れ、互譲(ごじょう)を愛す(天香さんのことば)”

「互譲」とは、お互いに譲り合うこと。


次の月に、それを聞いた、世話になっている、ある有名な会社の重役から、私の会社のためにも何かお皿に書いて下さい、と天香氏が言われて、筆を取る。

筆を持って皿の上まで、来たが、そのまま、じっとして筆が下りない。

何も書かかない。

重役は、これは悪い事を言ったかと思ったが、今さら、けっこうです、とも言えず、黙って見ていた。

そしてようやく、天香氏は、「この間は、名古屋で、”我れ、互譲を愛す”と書いたが、考えてみたら、あの”我れ”は、少しきつすぎた。」と言って書いたのが、これ。

”相敬(そうけい)互譲(天香さんの言葉)”

お互いを敬い、お互いを譲り合う。

これが90歳の頃の天香さんの言葉。

自己内省の謙虚さを示した。

石川氏は、書き換えたこの二つの言葉を愛している。


また、ある時、天香さんの言葉。


”下に降りると全体が見えてくるものです(天香さんのことば)”


上から俯瞰して見るのは、常識であるが、その逆である。

根を降ろして、根を降ろして、学ぶ、という心である。

頭を下げる、身体も降ろす、心も降ろす、一切を拝み切ること。

石川氏は、国について触れ、国は、子孫のために、借金を残してはいけない、と説く。

これこそが、本来の国家のあり方だ、と。

また、日本については、日本は、アジアのために何かをする力を持たないといけない、と説く。

石川氏自身は、カンボジア難民救済の活動でカンボジアにも行っている。

カンボジアでは、大変勉強になったという。

同行のある人が、ちょうど飴玉を持っていたので、目の前の子供に何気なく上げたら、教室には、30人くらいの子供がいることに気づいた。飴玉は、10個くらいしかなかった。

ああ、しまった、なんてことをしてしまったのか、とその人が思ったら、何と、子供は、一つの飴玉の紙をはがして、ペロっと口に含み舐めたら、この飴玉を口から取出し、次々と他の子供たちにも舐めた飴玉を回し始めたという。

何と言う事か、この子供たちは、こんなにも分かち合う心を持っていたのか、と感動したという。

自分たちは、援助には来たけど、カンボジアから学ぶ事は多かったという。

ポルポト政権は、政治的な混乱をもたらしたが、カンボジアの人々の精神構造は、地下に流れる水のようだ、と知ったという。

カンボジアでは、貯水池を作ったりして、活動したという。

仏教による救済活動の一環である。

カンボジアでのエイズの問題も語る。

カンボジアがアジアの中で一番多い。

エイズの子供たちと母親の問題。

これは、カンボジアでは”戦乱の病気”だ、と石川氏は言う。

カンボジアは、長い間、ポルポト政権をめぐっての内戦の戦地であった。

藁小屋にエイズの母親たちが、押し込められているのが現状だったと言う。

そこでは、石川氏は、会った事もあるというマザー・テレサの言葉を思い出す。


”愛とは、一人一人に向き合うことです(マザーテレサ尼のことば)”

エイズの子供だから、とか、どんな子供かは関係ない。

その一人一人に向き合うことが大事だと知る。
この病院の仲間にして欲しいと申し出る。

患者を救うには、莫大なお金が必要ではあった。

その時、知ったの事。

本当の仕事をするために起爆剤となるのは、お金を出してくれる人じゃない。

”小さなお金を出す人の感動を柱にすること”

これが、一番、大事な事。

お金を集める人を集めても人は動かない。

この時、自分と同じ病気を持つタケナガさんという人がいて、その人と話したことがある。

病気はひとつの”縁”である。

”縁”というのは、必ず意味がある。

長く生きるのも早く死ぬ、というのもあまり関係ない。

大事な事は、命をどう扱うか。

また、病気であっても病人ではない。

必ず素晴らしい生き方が生まれる。

タケナガさんが亡くなり、遺してくれたお金が、石川氏の起爆剤となる。

それを病院に送るのだが、お葬式で、タケナガ氏の会社の人が供えてくれた香典も、みんなが感動し、カンボジアの病院へ送る。

お金は、どうやって集まるか。

大きなお金を持って来る人はもちろん大事だけど、根っこになるのは、何でもない人の”物語”だという。

私たちは、その”物語をする”、ことなんだ、という。

その物語を実現させることだ、と石川氏は言う。

その時の心の感動が、人間の心の枠を取り払うのだ、という。

今年も次の年も、カンボジアのエイズの問題に取り組む。

そのための、マザーテレサの言葉は、涙がこぼれるくらい嬉しかったという。

こうした感動が現在の起爆剤ともなっているという。

勉強になった。

しかし、これは音楽同様、ただの”理論”であって、何の実践もしていないから、私は、相変わらずの人間ではある。


う~む。


こういう話は、記憶では、5年ぶりになるのか。

どうも同じ人物のような気がしないでもない。


『2006年2月9日(木):現代仏教の話し。「ウツ病」と「ニート」の文化。ロト.シックス体験』(時々日記より)

http://www.tomoyosejazz.com/update.diary.003.html#06-02-09


追記:今日、28日の沖縄は、午後9時頃から、風速50メートル級の台風である。

29日、午前3時頃、台風の眼に入ったのか、午前5時30頃まで、静かであったのだが、またまた、暴れ出した。

今日は、午前12時から、用事があるので、午前11時には、起きて台風状況の確認である。

このレベルの台風が、今日、29日には、九州に向かうと言うが、これは、大変な事になると思うほどの風力ではある。

沖縄で、車がひっくりかえるほどであるから、九州上陸となると、かなりの被害が出るとは思うので、しっかりと台風対策をして、絶対に外へは出ないことである。

被害がもし出たら、誰もこのブログを読んでいない証拠でもあるだろう。


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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │宗教と道徳