2011年02月28日

類は空気を読む仲間作りと「朝生」テレビ観戦と幸せになる本

まだまだ、2月だ。

今月は、執筆も終わったから、膨大な再再度の原稿チェック前にあたって、どちらかと言うと暇をもてあましている。

それでまあ、めずらしくブログの更新もちょっと多めで、さらにインターネットもしたりしている。

最近、ひょんな事から知った「あの人はどこ?」という、サイトで、これが、もしも、テレビ番組なら2時間の特番に価する、と言う企画の人探しだろう、と思うことを個人的に行っては、感慨深い人に出会ったりしている。

すると、びっくりすることに、みんなお互い、20年、30年以上も前からの「仲間」たちで、毎日の「共演」を繰り返して暮らしているのだ。

そんな実態(生態系)から見ると、長らく活動できるのには、こうした「持ちつ、持たれつ」の関係の中にいかに入って行くかにあるんだな、とわかる。

これは技術とは関係ない、互いの気質、性質に関係がある。
「類は友を呼ぶ」の世界だ。

そんな世界に若手は、鉄砲玉として斬り込んで行くのだが、鉄砲玉は、どこでも鉄砲玉で、これが、祖国を改革する事はない。(流失した祖国の「頭脳」ともならないからだろう。どこにいようが、鉄砲玉は、鉄砲玉だ。)

確立した気質がなく、いくらでも周囲に染まることができる若い内にしかできない突入戦略だろう。
ちょっと意味は違うが「鉄は熱い内に打て!」ということになるか。

鉄になってしまっては、もう、その形を変えるのもやっかいであり、万力が必要となる。
成熟した大人になってしまっては、馴染めない場も増えて行く一方だ。

沖縄県産生まれの私は、どこでも、よっぽど、その「仲間」になるための「波長」が合わなかったんだろう、と思う。だから、「逃げろ」「逃げろ」と避難し「篭城」して、早や何十年だ。

こうした「日本感覚」を共有できないまま、「沖縄」は、戦後66年くらい経ったんじゃあないか。

アメ~リカ軍と供に暮らして、60年くらい過ぎて、ようやく、その共存のしかたを3世代、4世代にわたってDNAに組み入れたというのに、「無口」でな~に考えているかわからない、アメ~リカに全く太刀打ちできないニッポンジン政治家の「思考」の配下に置かれ、年功序列社会に組み込まれるのも、オキナ~ワンとして生まれた人生としては、どうも不公平な話ではないか。

逆に、一方に慣れれば、今度は、他方で不自由する。
両者は、全く異質の感覚で、どちらかといえば、アメ~リカ人の方が、付き合いやすい、という県民も多いだろう。

(沖縄に”帰化”するニッポンジンは、逆に、こちらへ適応できるキャラに変えて生活するので、上手く行くようである。それができない者は、毎日が、不満の連続らしい。原住民との付き合いを避けてコミュニティを形成する移住派だ。アッフリカに移住して、日本人コミュニティが形成されるようなもんだろう。)

そんな、「無表情」か、しらじらしい「笑顔」しかない、世界から隔離されたニッポンジンの「仲間」にようやくなれたとしても、さらにそこに年功序列社会があるとなると、これは、もう、100年経っても「改革」とは、ほど遠い。

「何だ!こいつら、100年前から一味じゃねぇか!」と思うのだが、みんな仲良く、この島国で暮らして行く、となると、その「安寧」な日々を保つには、暗黙のルールに従わなくていけない。これが縄文時代から流れる日本村社会のルールであるのだろう。

(その点でも沖縄は、日本国という島国よりも一足先に何もかもの島国ケースが生まれているので、良いサンプル地帯となる。当然、その沖縄よりも離島は、さらにその先を行っているわけである。やがて、みんなメンタリティーは、こうなる、という前例だ。そこを飛び出し、改造人間となった若者の比率と言う点でも良いサンプルである。)

それ以外の考え方の人間は、当然、異質であるから「仲間」としては受け入れられない。

であれば、まずは、ニッポンジンに「同化」しなくては、と言う”鉄砲玉”の若者の野心は、歴史的に見れば、100年ばかり遅れた戦略ではないか。しょせん、長いものに「組み入れラれる」世界である。

中国だって、国外に出て、他国の人と「同化」して、成功した人たちは、相当な数だと思うが、それが、祖国の改革につながるか、と言えば、まったく関係ない。すでに外国での成功者は相当あっても、100年ばかりは過ぎているだろう。

そんな中、録画した2月26日、午前3時の「朝まで生テレビ!」を見た。

”激論!国民に国を守る義務はあるのか?!”

視聴者質問:
Q1:もし他国が尖閣諸島を占領したらどうすべきか?
Q2:国民は自国を守る義務がある?ない?(理由も)」

司会:田原総一朗
1:孫崎享:作家、元外務省国際情報局長、元防衛大学校教授、駐イラン大使等を歴任。
2:長島昭久:民主党・衆議院議員、前防衛大臣政務官
3:糸数慶子(沖縄):無所属・参議院議員
4:葉千栄(中国):東海大学教授
5:あれず・ふぁくれじゃはに(テヘラン、女性):東京外語大学研究員、ジャーナリスト
6:高田健:「九条の会」事務局員
7:森本敏:拓殖大学海外事情研究所所長、元防衛庁、外務省、防衛問題のスペシャリスト
8:佐藤正久:自民党・参議院議員、党国防部会長、元自衛隊「ヒゲの隊長」
9:笠井亮:日本共産党・衆議院議員、党政策委員長代理
10:潮匡人:国家基本問題研究所客員研究員、帝京大学準教授
11:アレクサンドラ・ハーニー(アメリカ、女性):ジャーナリスト、米外交問題評議会会員、香港在住
12:木村三浩:新右翼「一水会」代表
13大西健丞:NGO「ピースウィンズ・ジャパン」代表理事

今回からか、以前指摘された「ツィッターもない場所でのテレビ討論に意味がない!」と言うホリエモンや若手哲学家教授の提案を受け、ツィッター導入。(しかし、CNNのように、画面下には流れない、ではある。)

年寄り学者軍団に混じっての「地雷」的、爆弾は、「東京外語大学研究員、ジャーナリスト」の肩書き、「あれず・ふぁくれじゃはに」と言う名前の中近東辺りの生まれらしい一見、若そうな女性。

いやあ、誰にでも「噛み付く」。

特に、老人系中近東学者には容赦ない。ともかく、日本人の「くせに」、中東の話をする「老人学者」は、許さない、と言った剣幕で来ているのだろう。

常に、老人学者軍団は、「今、その話ではない!」と言い、意見を遮断する。

しかし、結局、最後まで、この「朝まで生テレビ」を聴いて、今回は、な~んの得にもならなかった。
普通に、大学の講義を受けた感覚だ。

唯一、建設的な意見は、老学者の権威が最後に言った「これから沖縄大臣に任命される人は、沖縄に住むべきだ!」と言う最後の一言だけが、印象に残った。

司会の田原総一朗氏を初め、”あれず”女史には、「わけがわからん」とし、最終的には、女史の話は、無視することにしていたのだが、3時間余りも、結局は、何の意味もない現状分析だけの議論を聴いて来て、もう一度、何か面白い話はあったか、と言う視点で再び、録画した、この番組を見ると、結局、「あれず」女史の話だけが、「今」を感じた面白い話となった。

しかし、議論としての「脈略」は、一切ない。あの田嶋 陽子(1941年4月6日 :英文学者、元参議院議員、タレント、シャンソン歌手?)並か。

ということは、「即興性」にかなり弱い、と言う近年の若者系学者特有の現象ではある。

最初から、自分で準備した反論が出せる瞬間の展開をてぐすねを引いて待っているだけである。
その点、時代とは逆行し、昔の人の方が、ずいぶんと「即興性」に長けている。議論慣れしている。

「今」の若者系哲学者は、ともかく「即興性」に弱い感じだ。
あるいは路線から離れた無駄話は「くだらない」として乗って来ない。

これは、どうした事だろう、と思うと、彼等は、常に「我田引水」的である。
自分の得意な分野の話にしか介入して来ない。

突然の議論に対して、臨機応変には、対応できないどころか、「論旨」から外れている、とキレてしまう。
恐らく、普段から、「意味のないお喋り」が苦手なんじゃないだろうか。

「お喋り」する事、自体が、常に、「自分の意見を演説する時」ではないだろうか。

(最近の音楽傾向で言えば、一人演奏のギター・ソロブームが上げられるだろう。ポップス系の曲を一人で演奏することが楽しいそうだ。だからといってクラシック・ギターはお断り!、という事だ。押尾コータロー氏の影響だろう。ジャズからすると即興性はさほどない。キーも限られたキーであったり、ソロで演奏しやすい変則のチューニング演奏なので、とっつきやすいのだろう。)

その証拠かどうか知らないが、結局、参加者の半分は、ほとんど沈黙気味で、喋っていたのは、老人系学者たちである。

彼等の話は、確かに専門的で詳しいのだが、あれを延々と聞かされていると、何かを改革しよう、と言う気持ちにならない。ああ、世の中は、こんなに複雑なんだなあ、という感想を得て終わりだ。(まあ、半分は、そうした専門知識がてっとり早く聞けるから「朝生」を見ているのだけど。)

どんな場であれ、空気を読むのは大変だ。まして、それが意欲的外国人となるとトンチンカンにもなる。
日本人のフリーの中年ジャーナリストだって、やたらでかい声で論旨に関係なく反論ばかり言う人がいるくらいだ。

私自身もその場の「空気」を読むのが苦手だ。
空気を読むよりも、空気を変える方が向いている。その場の空気と言うのは、大概、「つまらない」ものだからだ。

だからできるだけ、「空気」に従わなくてはいけない場は、避けるようにしている。そんな場にばっかり出ていると行動力がなくなって行く感じがするからでもあるが、行動力も昔のようには、今は、ほとんどない。

「つまらない」場は、一度学習すれば十分だ。それが未知の世界であるから行動力も生まれ探検をするわけで、一度、「つまらない」とわかってしまってなお、その場にいなくてはいけないとなると、あとは、忍耐しかない。

忍耐しても何か益がある、ということであれば、忍耐も大切だが、世の中は、けっこう、な~んの益もないのに忍耐することの方が多い。どちらかというと、益のある忍耐の方が、珍しいくらいだ。

忍耐強い、会員や社員に対して、こんな扱いをしていたら、発展もしないだろう、と思う組織や会社が、大体、衰退して行くだけなのだが、元々、トップの感情でしか物事を決めていないから、改善される様子はない。

すると優秀な人材は、どんどん去って行く組織になり、入れ替わり、人材、品質も劣化して行くことになる。
会社、組織に取って重要な人間を軽視し、つまらない奴隷体質の人間を重用するもんだから、そうなって行く。

誰が重要で、誰が無用かの眼力がない者が、トップとなっている結果である。
まさに、栄枯盛衰といえよう。

近年、生徒の人格、人間教育を基本的には放棄している私は、ただ、ただ、本を紹介することで、本人の自助能力にこれらを丸投げしている。

そんな私も常に、若者の生徒に勧めている手前、久々に加藤諦三氏の本を購入して読んだ。







著者の本は、よく生徒に勧めているのだが、結局、読む生徒と言うのは限られていて、読んだとしても大した量ではない。2、3冊程度だろう。

(私自身でも、これまでに60冊程度でしかないけど。同じ本を読んだ、という事であれば、10代の頃から100冊は読んでいるかなあ。)

ああ、やっぱりなあ、と思う事だらけで、晩年に不幸になる人のタイプは、確かに、そうだろう、と勉強になった。
常に「神経症」的な人をテーマにしている加藤氏の本としては、ちょっと珍しいアプローチの本だろう。

世の中の人を「きずな喪失症候群」タイプと「燃えつき症候群」のタイプに大別している本である。
私自身は、長年の修行のおかげで、どちらともいえないタイプではあるが、商売上で相手にする生徒は、「きずな喪失症候群」の生徒か「燃えつき症候群」のタイプの生徒かのどちらかであったりする。

挫折型のほとんどは、「きずな喪失症候群」のタイプで、世の中には、このタイプが多いのではないか。口先型といえるだろう。熟練すれば、言葉巧みな詐欺師にもなれるタイプである。

「燃えつき症候郡」のタイプの生徒は、いわゆる、騙される方の「奴隷気質」のタイプだ。組織を離れたり、定年退職した後、不幸を迎えるタイプである。これも極端になると、現在、言われている「孤独死」のタイプといえるだろう。

通信生へは、人間教育放棄の手前、たまに本の紹介をしたりしているが、効果があったかどうかで言えば、ほとんどないような気がする。

口先型、挫折型は、結局、何を読んでも変わらないし、奴隷型も結局、周りから良いように利用されるだけの人生で、本当の友達には恵まれていない。

やはり、世の中は、音楽理論と同じで、本の知識を取り入れたら実践しないことには意味がないわけである。
しかし、そもそものこうした知識さえない者では、年々、手遅れ状態になって行くだけであるから、その子孫へのDNAの連鎖は、なかなか断ち切れないままである。(がんばる親、がんばらない子供の図式である。)

とりあえず、日本での成功は、まず、場の空気を読んで、仲間に入れてもらえるだけで、幸せと言えば、幸せではないだろうか。これは、入院した病棟で、同じ病気の仲間を得て、元気になるような世界に良く似ている。(みんな病気が同じなのだ。)

私自身は、なかなか、自分自身の趣味嗜好の「ビョーキ」を持つ人間には、あまり出会えないので、これと言った仲間もできないのだが、いずれ、私ようなタイプも増えて来るのではないだろうか、と楽観的ではある。

新種の病気だから、まだ仲間もそんなには、いないってことだろう。


同じカテゴリー(修行&音楽)の記事