2010年10月31日

プロの定義と真面目人間と無縁社会

10月も終わりと言うのに更新するってのは、ネバー・ギブアップのスピリットか、往生際が悪いのか。

やはり、こういう目立たない所で、更新しておく事が何事も大事だ。
こうした実践が、一般にあまりスポット・ライトも浴びない所で、妙に頑張って行ける気質を作る。

世の中には、ミーハー気質の人間では、理解できない、びっくり仰天の裏の実力者がいたりする。
その一人一人が、人知れず、荒行の日々を送っているわけだ。
スポーツの世界でも突然、新星が現れたように見え、あれよ、あれよと言う間に王座まで上り詰めたりする。

裏の世界は、表の世界では、受け入られなかった個性集団だ。誰もが、一夜にして、表の世界の人気をすべて持って行くらいのパワーを秘めている者たちだ。

こうした世界を扱ったマンガも多い。(往年の野球マンガ、「アストロ球団」か。対巨人を目指して、超人たちを集めるのであるが、結局、超人たちが、対戦する相手は、王、長島、、といった人間たちでしかない、ところが、可笑しい所ではあった。巨人軍の選手は超人以上、という事になる。)

時折、素人なのに、ド偉く、歌が上手かったりする者もいたりする。(もちろん、演歌系だ。)こんなのを前にして、私は、プロの歌手です!と言うのは、もの凄く恥ずかしかったりするのではないか。

今の所、演歌界は、一部の例外を除いて、こうした素人にも負けない歌唱力を持つ歌手ばかりが、君臨しているから何とか面目を保っている。

「それでメシを食っているからプロだ、と言うのは、田舎理論でしかない!」と、かつて、師匠(ギターの方の、、、故人)から言われた事がある。十代の頃だから、あまりその意味もわからなかった。

当時は、音楽のプロに成れたらいいなあ、と言う願望しかなかった。いや、よく考えたらそうじゃないか。プロになるならない、なんかもどうでも良く、とにかく楽器が上手くなりたかった。

だから、一般的にプロの仕事だと思われるような仕事でも、これは何の勉強にもならないなあ、と思う仕事は、嫌だった。そんな事をしている時間はない、と思っていた。

もちろん、どんな事でも何の勉強にもならないわけはないが、そんな事は、勉強しなくても良い、と思っていた。そもそも、それができている人を見ても、かっこいい、と思わないわけだから、やる必要もない。

頑張って、それができるようになった、としても、そんな奴にしか成れないなら、頑張ったってしょうがない、と思ったわけだ。人は、パンだけ食べていれば生きられるってもんじゃない。そこそこに夢も食べてないと活力が湧かない。

だから、他人が真面目に取り組んでいる事でも、何でこんなくだらない事を一生懸命やってんだろうなあ、と思うだけだった。

自分が、成りたいと思う事は、これこれの才能と実力と実践経験がないと、到底、成れないと、、言う分析力には長けていたから、実際、それ以外の事を真面目に取り組む気にはなれなかった。

それなのに、それも目的のための修行の一環だ、と言われて、やらされたりするわけだ。

譬えて言うなら、作家になりたいです、と言って、教室に通ったら、「まず漢字検定1級を取りなさい!」と言われて、漢字ばっかり覚えさせられるようなものか。

おそらく指導者が、漢字検定1級を10年くらい掛けて取得したからだろう。
だから、それを指導すれば、少なくとも10年は、暮らせる。
そこの教室では、「あいつ、漢字検定3級も取得してないのに、作家志望だってよぉ~」と言った会話が飛び交う。

これなんかも、何か、指導者も含めて、全員、間違っているはずだ。

何か、恐ろしいくらいに算数ができなかった大人たちじゃないか、とも思ったりした。だって、これとこれをやれば、必ず、こうなって行く、という図式、公式がある。それなのに、何の関係もない事を真面目に実践しているわけだ。

その根底にあるのは、おそらく、”臆病”なだけだろう。実践そのものが、怖いだけである。だから、何とか、それを避けるような理論メソッドばかりを開発するんじゃないか。

つまり、いかに水に入らないで、泳ぎ方を覚えるか、あるいは、いかに、実際に一輪車に乗らないで、一輪車の乗り方をマスターするか、という事だろう。

こうした、間違ったメソッドで何十年も、何の成果も見せず、真面目に取り組めるとしたら、こりゃあ、奴隷の感覚だな、とすぐにわかる。

役にも立たない事を毎日、修行だ、修行だ、と洗脳されて、続けているのだが、何十年経っても実践で全く通用しない実力しかない。

それでも「信じて」、コツコツと真面目に取り組んでいるのだ。
一度くらいは、水に飛び込んで泳いでみたらどうだ?とか、一輪車に乗ってこけてみたらどうだ、とか、ジャム・セッションに出てみたらどうだ、と勧めるが、基本的にすべての元凶が「臆病である」と言う事だから、そう簡単には、動かない。

いやいや、まだ機は熟していない、、と言った事になる。
何事も「臆病」だと他人の何倍もの時間が掛かる。

中学生が、一週間でマスターしてしまう極意を、30年掛かっても全く理解できない、という事にもなる。
それくらい「実践」から学ぶ事は大きい。

何十年もの演習訓練よりも1週間の戦場体験の方が、色んな事を学ぶ。実際の戦場では、一体、何が、無駄で、何が大切な訓練か、が理解できるはずだ。

だからと言って、戦場体験を勧めるわけではないが、それだけ実践から学ぶ事は大きい、と言える。30年、実際の戦場を知らずに訓練を受けるよりも、1日だけ実践を経験する事の方がどれだけ多くの事を学ぶ事ができるか。貴重な体験だろう。

だから、物事への取り組み方として、何事もそれを信じてやれば、必ず、目的は達成する、という「信じるパワー」も嘘だろう、と思っている。

役に立たない事は、何十年経っても役に立たない。

だって、物事と言うものは、まったく信じてない者の方が、何十年も取り組んでいる者より、あっと言う間に上達したりするわけだ。

上達する連中に流れる根本的な考えは、「ああ、これをいくらやっても何の役にも立たないなあ。どうしたら、こんなものを役に立てる事ができるかなあ~」と言った考える癖が付いている事だ。

もちろん、彼等と、ダメ人間との違いは、彼等は、どこでも一応「優秀」と言う評価は受ける。
ところが、ダメ人間は、何をさせても、どこへ行っても「ダメ!」と言われる。

この違いを明確にして、混同しない事。
できているのに、これは役に立たないな、と文句を言うのと、どんなにやっても、できもしないのに文句を言うのとの違い。

まあ、そもそもの間違いとして、一切、実践的な闘いのない指導者によって修行課題が与えられている事に尽きるわけではある。

その指導者をけっして超える事のないシステムが、出来上がっているわけだ。本来は、そのシステムの一番の実践者が、指導者でないといけない、というのに、それを証明する事さえタブー視されている宗教団体の教祖と信者の関係になる。

何で、こんな役にも立たない事を何十年も稽古してんだろう、と信者を見ると二つに分かれる。

一方は、これは、完全に信者の目だ。
物事を他と比較して、全体から見抜く力にいちじるしく欠けるから、それが、ベストな選択だ、と思っているのだろう。

多くの日本人のDNAに刷り込まれた「奴隷魂(=武士道)」意識だ。
これが、現代の会社人間のメンタリティーである。

結局は、「無駄死に」するとわかっているが、主君に仕えて、人生を全うする「快感」に酔いしれているわけである。

他方は、これは、単なる、無能者だ。

他にやる事もないから、ただ「従順」に物事を続けているだけだろう。

権力者の言う通り振舞えば、「御褒美」が、貰えた、と言う経験から、何でも、小学校の延長線上でしか、物事は考え切れない、と言った者だろう。

授業中、教科書に落書きして、パラパラ・マンガなんか「創造」した事もない人種かもしれない。
真面目なわりには、報われない人生だ。

遊びを考え出す創造力もゼロ、ただ、朝起きて、仕事して、やる事ないから、指導を受ける、というゾンビのようなタイプだ。恐らく、仕事でも、それ以上でもなく、それ以下でもない仕事ぶりだ。

彼等に取っては、音楽も、そうした日々の逃避でしかない。

これが、人間は、いかに小さなテリトリーの中でしか生息できないか、と言う事の良い例だろう。

より広い世界を知っている人から見るとそこは、「穴倉」にしか見えない。穴倉に、うじゃうじゃと微生物が生きているわけだ。

当然、より広い世界を知っていそうな「生き物」に対しての警戒心を持つ。これを認める事は、現在の自分を否定する事にもなる。

今日は、テレビで、NHKの「無縁社会」の討論番組を、第1部、第2部と見た。

50年ほど、ずっと一人ぽっちで生きる91歳の地方で生きる男性も出ていた。

とにかく、みんな、真面目そうだった。

真面目の反対は、何だろう、と考える。

不真面目、と言うのも安直ではある。

インチキ不真面目も多く出て来そうではある。

何であれ、とにかく、真面目な人は、可哀想である。

集約すると、何の役にも立たない事ばかりをして、どうでも良い主君のために、命を投げ打って、真面目に尽くす。

その結果、孤独老人となり、いつのまにか、面白い事の一つも言えず死んで、無縁仏となり、誰も引き取り手もなく、現世から消えて行く人、と言う事になる。

危機意識があるなら、元気な内に、もうちょっと、勇気を持って、ジタバタと大騒ぎして、生きてもいいのではないか。

人間、かっこばかり付けていると、碌な事にならない。

10月の最後の1日は、こんなブログで、世間と対峙だ。

無縁社会は、やけくそのように、他と無縁だからこそ、やってのけられる、という人種の犯罪ばかりを見せ付けられるのではないだろうか。

私は、ずっと言い続けている事に、”縁は、存在するものではなく、自分から付けて行くものではないか”、と言うのがある。

大した人生の日々も送っとらん、と言うのに、自分より創造的な人生を展開している者たちに対して、”縁がありましたら”なんて、ほざくのは、どれほどの傲慢な態度か。

人間は、自分より次元が上の人間との「縁」なんか、全くない。
それは、インドのカースト制の如しだ。
あるのは、同次元の同レベルの仲間との「宿縁」だけである。

そんな人生の中、他の階層の人間に対して、「縁がありましたら、、」なんて、貴様、何様気取りだ!、と言う事になる。

今月もこれで終わりなので、今日一日、このブログを「晒して」おこう。

よく整理しないまま、掲載する事にする。

単に、今、飲んでの帰りなので、眠いからと言う事もあるし、10月は、ちょっと更新を頑張って4回もしだぞ!、という事も自分自身に対して、自慢したいからでもある。

そんなわけで、私のブログと読者の縁は、すべて、読者の側から付けたもので、私から付けたわけではない。

”縁がありましたら、、” なんて、口が裂けても言えない、傲慢な、発言と言うしかない。

自分の次元を上げようと思ったら、「縁」なんて、すべて自分から付けるものでしかない。

そうでない「縁」は、あちらから勝手にやって来る。

そう言うのを「腐れ縁」と呼んでいるわけだ。

だから、人は、「腐れ縁がありましたら、、」と言って、去るのが、基本である。

やがて、そうした消極的な縁がすべて消え、無縁社会の住人となるわけだ。

さすがに、眠いので、この辺で、、、。



同じカテゴリー(修行&音楽)の記事
Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │修行&音楽人生論テレビ、映画