2010年10月26日

デフレとインフレ、謙譲の美徳経済のお勉強

やれやれ、という感じだ。
来年2月の本出版に向けての原稿書きもようやくひと段落。
バリ島から帰った5月末くらいから始まったのか。

(しかし、実際は、二度同じものを書いた。一度目が、下書き原稿で、二度目が、清書だ。だから驚きは二倍にして欲しい。1冊、400字詰原稿用紙50枚×22冊くらいだから、1100枚くらいかな。この倍の量を書いたわけか。)

しかし、続いて、教材用のCD制作だな。
最近の教則本には、CD教材が付いているのが普通だ。

今の所、アイディアが湧いて来るのを待っている段階ではあるが、まだ定まらない。
だから、もっとお酒を飲んだり、ドライブしたり、映画を見たり、マンガを読んだりして過ごさないといけない。

創造的なアイディアを得るのに、一番、まずいのは、創造的でない人ばっかりに会う事だ。
夢がない人たち、と言ってもいい。

何をするにも、自分は、所詮、この程度ですよ、と言う謙遜な日々を暮らしをしている人たちだ。
習い事をしても「いえいえ、そんなに上手くなる必要はないですから、、」というようなものだ。

世の中、どんなにがんばっても、上手くならない人もいると言うのに、最初から、「そんなに上手くなるつもりはありませんし、、」なんて心構えなわけだ。考えようによっては相当な自信家だ。

会社で言えば、「よし!オレが、この会社の社長になってやる!」と思っている新入社員が、「おいおい、オレは、課長くらいでいいんだよ~」という同僚とつきあうようなものだ。

運動会のかけっこだって、最初から2番を目指して走るのは、難しい。無理だろう。
他の全員は、一生懸命、全力疾走で走っている中、自分だけは、2番でいい、3番でいい、なんて走る芸当は、実際は、1番になるくらいの相当な実力差がなきゃコントロールできないはずである。

だから、謙遜をする者は、相当な実力者か、相当に回りを舐めているはずだ。
全力疾走しなくても、そこそこは、行けるだろう、と思っているわけだ。

人は、1番を目指して、努力しても、気が付くと2番、3番、果ては、ビリっけつになっていたりする。
若者と年配の差は、こんな所だ。

だから、基本的に年寄りを相手にするのが嫌だ。
こっちまで、年寄り的な考え方になってしまう。
しかし、近年は、若者でも考え方に大差ないのが現状だ。

最近の中国反日デモのニュースでは、何やら、中国の若者は、1980年生まれ辺りから、愛国心教育をしたから日本への敵対意識も激しい、と言う。

本当か?それが本当だとしたら、あまりにも真面目過ぎる。
しかし、その上の世代は、ちゃんと国家と闘ったはずだ。天安門事件は、親の世代なのか。

だとしたら、国家に従順なだけの家庭はありえないが、日本とも似ているか。
親世代は、70年日米安保の時代だから1970年頃、大学生の親だ。

確かに、こうした団塊の世代の親と違って、子供は、国家に逆らわないではあるかなあ。
親の世代は、国の改革に夢破れて、それぞれが超個人的な趣味の世界に走った世代だ。

80年代の生まれの中国の若者が愛国心教育を受けている中、日本の若者は、ゆとり教育、という事になるのか。もっと後かな。どちらも90年辺りが、小学生だろう。その頃、ゆとり教育という言葉を聞いた事がある。

競争が苦手なわけだ。何でも、競争はいけない、と言う育ちだ。小学校の運動会のかけっこ競技で、みんなが手をつないでゴールインするニュースを見た事がある。
まあ、私の世代には考えられない、週休二日教育でもあるし。

これが、本当だったら、物凄い意識の格差ではないか、と思う。一方は、敵対意識で、他方は、競争は嫌だ、というんだから、実際は、どうなるんだろう。因縁をつけられ、「君、やめたまえ!暴力はいかんよ!」と、言う事になるのか。

まあ、今は、中国も固定相場制だから、海外に出れば、偉く金持ちもたくさんいる。昔の日本の農協世界を行くのようなものか。(筒井康隆氏の小説に「農協月へ行く(1973年」があった。)

家で取れたお芋一本と小判一枚が、交換できるとしたら、世界を支配した気持ちにもなるだろう。成金感覚と言うのが、こんな感じではないだろうか。(玄関にいきなり、虎の毛皮が敷かれてあったりして、、、。動物界を支配する王様の気分だろう。動物を支配する気分は、強さの象徴だ。)

そんなわけで、自己卑下、謙遜ばかりしているおっさんや若者と言った現実の人間ばかり相手にしていると、夢も希望もない。(私は、「ユメもチボ~もない」とすぐ訛る世代だ。)

こんな事をしてみたい、あんな事をしてみたい、というなら、聞いていても楽しいが、自己卑下ばかり、謙遜ばかり、口を開けば、「できません!」「私には、無理です!」だから、こんな者たちの相手ばかりしていると、こちらまで、病んでしまう。
自分は、何をやってもダメなんだな、と言う気持ちになってしまう。

そんな話は、自分の家族とだけ話して貰いたいもんだ。
自分の家族なら、そんな発言の「被害」を受けても家族もろとも自業自得だろうけど、他人にまですべきじゃない。

(実際、みんなそういう両親、特に父親の被害を受けて成長したはずだ。だから現在は、それを証明した生き方になっているだろう。)

自分は、無能です、と言うのが、日本的な心で、謙譲の美徳、謙遜だとしても、その発言自体で、その場の空気、エアーね、それが、「無能エアー」で満たされてしまうわけだ。

我々は、それを無意識に呼吸して吸ってしまうわけだ。
つまり、そうした発言は、きれいで、希望に満ちた空気を汚染している事になる。
これも環境汚染の一つだ。

これが、歴史的な名所、たとえば、坂本竜馬が、いつも同志といた店だ、と言う話になると、その場所へ行きたがり、記念写真でも撮る、というのに、それ以外の場所は、自分で汚染してしまっている。

最近は、パワー・スポットという事で、歴史的名所が紹介されたりするが、そういう所から、有名な誰々が、生まれた、とか、そういう人たちが集まっていた、とか言うわけだから、そこで会話されていたであろう言葉が、エネルギーに満ちたまま、時空を超えて漂っているように感じるわけである。

(日本の漫画家の「トキワ荘」や、中国の「梁山泊」なんかもそうだろう。)

なぜ、そういう所が、パワー・スポットだとか、記念の場所になるのか、と言えば、そこに行くと上質の生きるエネルギーが溢れていると感じられるからだろう。だから、人々は、そこに行きたがるのだろう。歴史的人物たちが、その場所で、未来への希望、夢、国家を語った場所でもある。

これは、何十年かして、学校の教室を訪れた時の感動とも同種のものだろう。
ああ、昔、自分は、この教室で、夢一杯に学び、語り、友と供に生きていたな、と言うような想いが、その空間から感じられるから、感動を呼ぶわけだ。

その証拠に、これが、有名な場所とは言っても、有名な殺人現場や処刑の場であったら、誰も訪れたくはないだろう。

こうした視点から見れば、神社仏閣もそうだ。

そこは、様々な人たちの、明日も生きたい、という想いが、うずまき、浄化されているからこそ、訪れたくなるわけだ。(いつでもお正月気分を味わえるわけだ。だから、私なんか、昨日も原稿完成の報告に行って来た!)

わざわざ、神様に「これから死にますから、よろしく、ああ、住所と生年月日を言うのを忘れていました、、」と報告しに訪れる者もいない。

死ぬ人は、直接、樹海名所コース巡りをするはずだ。
そうした名所に行くと嫌な気分を味わうのも「死にたい、死にたい」という逆の念のエネルギーに満ちているからだろう。

まだ、死にたくない、生きたいと願うから神社仏閣を訪れ、神様にすがるのだろう。
という事は、そこは、「生きたい!」と願う人の念に満ちているわけだ。

そう考えると、教室と言う空間も似たようなもので、そこは、夢と希望に溢れた念がうづまいている空間でないといけない。

これまで、大した荒行もせず生きて来たからと、人生なんて大した事がない、そこそこに自分たちだけ暮らして生きていけたら十分で、みんな、自分たちに以下になって暮らしてくれたら本当は、もっと一番、嬉ピ~(まだ、使うか。。)、なんて、言っている大人や若者たちに空間を汚染させてはいけない。

謙遜や自己卑下なんかの言葉は、その空間の空気が汚れるだけで、言ってはいけない。言いたいなら、自分の家族に向かって言えばいい事だ。

そうすれば、自己卑下、謙遜一族として、代々継がれて行くわけだから、本望だろう、と思う。何も、他の一族まで、道連れにする事もないだろう。

いえいえ、私は、そこまで欲張りではありません、これくらいでけっこうです、なんてばかり言っていては、どんどん、その要求も、それに要するエネルギー量も小さくなる一方だ。

実際、そんな気力もない者ばかりを相手にして来た者が、生命エネルギーを奪われ、無気力になっている例もかなりある。

私が、客にこだわったり、生徒の希望もまともに聞かないのにも意味がある。こうした者の希望や夢をいちいち聞いていたら、私自身の希望や夢も小さく、つまらないものになってしまうからだ。

お客様は、神様です、なんて思うわけがない。お客様は、お客様である。商人(あきんど)道なら、支払った金銭以上の満足感を与えればいいわけだ。

物の値段を下げる事(デフレ)は、結局は、社会全体が、貧しくなって行くだけだと、この間テレビで専門家が言っていた。良い悪いの話よりも、デフレの後は、必ず、社会は不景気になる、という事実があるらしい。
(物価が下がる→利益が下がる→給料が下がる→不景気)

だから、私は、下げるくらいなら売らないほうが良い、という商売のあり方を考えているつもりではある。
ところが、世の中は、どんどん物の価値を下げて売る。

ただ、頭を下げるくらいはコストが掛からないので、下げまくってもかまわないだろう。(上手い!座布団、2枚!)

欲しい物は、いくら値段が高くても欲しいものだ。
しかし、欲しくない物は、値段でも下がらない限り欲しくならない。
必要としないからだ。

私は、欲しい物は、たくさんあるが(高級手工品クラシック・ギター!)、はて、欲しくない物は何か、と問われても即答に困る。欲しくない物の事を考えた事がない。

どうしても、と言うなら、リカちゃん人形は欲しくない。

しかし、今まで、1万円もした、というリカちゃん人形が、100円くらいだったら、考えてやらないでもない。
目の前にあれば、そういえば、前から欲しかったかな、と思うかもしれない。

100円と言えば、今は、100円のジャズのCDもある。
という事は、欲しくない人に無理やり売り付けているわけだ。

プロの板前なんか、休日の食べ歩きスパイ偵察で、一人最低1万円から3万円くらいは、使うと言うのに、二千円のCDは、高い、と言う。つまり、いらない物だから、二千円でも高いわけだ。

安売りするって事は、このCDは、いらないでしょうけど、それでも買って下さい!と言うようなもんだ。
そんな奴に売ったって、ちゃんと聴いてくれるわけがないのに、それでも売るってのは、何のためだろう。

そんな利益は大した事がない。二千円が100円なわけだから。
名声が欲しいなら、奇抜な名刺でも作って只で配りまくった方がいい。

そんなわけで、商売は、それを必要としている人を相手にできたら世の中の流れに従わなくていい。
わざわざ、必要としていない人にまで呼びかけるから、安売りにもなるし、お客さんの質も悪くなる。
しかし、アメリカ型資本主義社会は、資本家と労働者の関係ではない。資本家と消費者の関係になる。

欲しくない物を欲しがらせるには、広告が重要だ。「あなたは、これを欲しくな~る~!」と露骨に催眠術を掛けては、バレバレだから、間接的なテクニックをあれこれ開発する。

そうやって、CMを見終わった後は、「な~んだ!今の今まで、ちっとも気がつかなかったが、俺は、この商品が、欲しかったのか!」とすっかり催眠術に掛けられているって寸法だ。

働かせて、給料を支払ったふりをして、その給料で、何かを買わせて消費させる。その巻き上げた金は、自動的にまたまた資本家の元へ還元されて来るというわけだ。
物の値段は下がったとは言え、支払う給与も下がっているわけだから、結局は、同じだ。
安い賃金で自分を売って、その報酬で安い物を購入する社会だ。

デフレは、社会全体が、そんな風になって行くわけだが、ここにまた、自分自身の価値下げ、謙遜も入って来る。

「いえいえ、自分は、そこまでやる気はありません、そんな大した能力はないです、、」と言うわけだから、これは、”デフレ人間”と命名してもいいだろう。(上手い、座布団20枚!しかし、よう、即興で、つなげるなあ。我ながら。)

という事は、デフレ人間に未来はないのは、すでに経済学でも証明されているわけだ。

おまえの話はつまらん!、という事で、そんなのを相手にしているよりは、マンガ喫茶で、荒唐無稽なマンガ話を読んで過ごした方が、よっぽどマシである。夢も希望も補充され満たされる。映画も良いだろう。

もし、「オレは、天下を取るぞ!」と言う夢を抱いて、現実は、そうでなかったとしても、「う~む、なかなか天下を取るのも難しい」、と言う程度の反省で十分だろう。(アニメの”鷹の爪団”のようだが、、。)

勝利を夢見て生きるのだが、たとえ、負けたとしても、”GOOD LOSER” (グッド・ルーザー:負けっぷりの良い人)を目指せばいいのではないか。

見ておけ、俺は、一番になるぞ!と宣言して、ダメでも、「なんだ!ビリだったか!。しかし、今度は、そうはいかんぞ。覚えておけ!」と言う気持ちで、次に賭ける人間の方が、謙遜や自己卑下ばかりしている人間より他への影響は良い。

(もちろん、何の根拠も実力もなく、そう宣言している者たちも当然、多い。実力社会なのに、人気商売と勘違いしている場合だろう。実力がないんだから、成功はない。成功したかったら、歌でも歌って、人気商売系に転向した方が良い。人気商売系は、何が当たるか、博打ではある。)

という事で、謙遜や自己卑下ばかりを美徳する人間の中にいると、何かを自分が成し遂げても喜ばれない。嫉妬心を抱かれるだけだ、と言う。普段は、自分の本心を隠して、謙遜ばかりしてんだから、誰かが、自分を超えて行くなんて事に嫉妬心を抱かないわけがない。

そんな環境の中、本なんか出版したりしようものなら、どれほどの嫉妬の念を受けるかわからない。
一冊の本を出しただけで同業者からの嫉妬や妬みの念を受けた、という。

この恨みは、数冊くらい続いて、ようやく敵も観念し、自分たちとの違いを受け入れる、と言うから、私なんかの受ける同業者からの嫉妬の念も相当長く続くだろう、とは思う。

喜ぶ者は、本を買って読んだ読者だけだろう。これはCDだって同様だ。「何!あいつが、CDを出すって!絶対、買うもんか!」ってのが、同業者の反応だ。

まあ、どんな業界も似たようなライバル関係にあるだろう。

そんな中、久々に大手、書店&レンタルDVD&CD店に行ったら、人気ベスト・ジャズCDのNO.1に、あの沖縄を代表する巨匠ジャズ・ピアニスト!のCDが堂々と1位ランキング!まあ、地元の地の利もあるだろうけど、一族未到の快挙だろう。

これもやはり、デフレ社会ならではのものではないだろうか。
物の価値が下がったのに伴い、物事に対しての価値基準自体も下がって行ったわけだ。

価値基準が低い社会では、小学生並が、大人並くらいに扱われるわけである。

いや、待て、よく考えれば、元々、価値の低い物が、高く評価されるわけだから、これは、ひょっとして、当事者に取っては、物の値段が高騰する”インフレ”現象と言えなくもない。

という事は、ここでは、好景気社会に成る兆しが見えている証拠と言えるかもしれない。

元々、価値の低い物に取っては、これ以下の価格も付けられなくなっているわけだから、後は、上がる一方である。

高級商品もデフレでは、低い価値の低級商品と「心中」させられ売られるわけで、逆にインフレは、価値の低い商品が、価値の高い商品のように高値で売られて行くって事になる。どんな物でも評価価値が上がるってわけだ。

謙遜ばかりして、常にハードルを低くして自分の評価を下げながら生きている人間をデフレ人間としたら、実力はないが、自分の価値を高く評価して生きている人間をインフレ人間、と言う事ができる。

そうなると、日本の組織に生きる人間は、同僚からの嫉妬を警戒し、デフレ人間を目指し、自由業で生きる人間は、自分の力を誇示し、インフレ人間として生きなければ、仕事もやって来ないって事になる。

もちろん、デフレは、社会を不況にさせる、という事実には変わりないらしい。
私は、インフレ人間だから、誰にも遠慮せず高騰して暮らしたい、とは思う。

琉智氏から私が、ギター伴奏をした「母さんの日記」(「時は昭和の真ん中で」とカップリング)のCDに関しての告知メールを受けた。(8月4日ブログ、追記参照)

「時は昭和の真ん中で:母さんの日記」アマゾンで流通、タワーレコードHMV?などで取り扱っているそうです。

「時は昭和の真ん中で」はRBCラジオの人気番組「団塊花盛り」の推薦曲という事で週に2回位のペースで流れているそうです。



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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │修行&音楽時事人生論