2010年09月30日

成功本と若返り法と沖縄仏壇と葬式塩の話

この頃、テレビなんかで見て思う事は、同い歳の人間となると、もう、びっくりするくらい”お爺ちゃん”になっている事だ。この傾向は、40歳くらいから何となくわかって気づいていたが、50代ともなるともうボロボロだ。
大体、65歳くらいかなあ、と思っていたら、同い歳だと言う者続出だ。

もちろん、これは芸能人には見られないので、芸能人ばかりを番組で見ていると気が付かない。たまに、一般の人を扱った番組や、ニュースに出て来る犯罪者なんかを見てびっくりするわけだ。

一体全体、何を食べて暮らしていたら、ああも、ボロボロのお爺ちゃんになってしまうのだろう、と思うのだが、よくよく観察していると、なるほど、お爺ちゃんになりたくて、そうなったんだな、あれは、望みを実現した姿だったのか、キリンの首がなぜ長いか、に同じだな、と納得する事ばかりだ。

そういう私自身も白髪がたくさん出て来たわけで、同じ名前に「哉」の文字が付いているからと言って、キムタク・カットでもしようものなら、「おまえは、玉手箱を開けた浦島太郎かあ~、」という突っ込みを受けないとも限らない。だからと言って、髪を染めるのも面倒なので、短髪のままだ。(何時でも裏稼業に生きられるようにだ!)

ユーミンの「いちご白書をもう一度」の歌詞だったか、”就職が決まって、髪を切って来た時に、もう若くないさ、と君に言い訳したね」というサビの歌詞の箇所がある。

その前の方では、「ぼくは、不精髭と髪を伸ばして学生集会へも時々出かけた」という歌詞があるから、髪を切る事は、武士が「髷(まげ)」を切る思いを表している事になるのだろうか。

その点で言えば、毎回、「あっ、散髪して来たんですかあ~?」と聞かれるたびに、「何言ってんだ!オレは、中学の時にビートルズを聞いて以来、髪は、伸ばしたい放題のロッカーだぞ!」とスポーツ・ジムなんかで、言っていたら、高校生のお喋りな男子に受けた。

以来、何かと質問しに近寄って来るのだが、どうやら、高校生にも「このオジサンは、何かおかしい」と言うのが、わかったのだろう。(私からすれば、バレてしまった、と言う感じだが、、。)

「本当にロッカーですか!」と聞くので、「見てわからんか!」と言ったら、ますます喜んでいた。どうやら、裏で、回りの人に聞いて職業調査をするようだ。どうせ、回りも職業を知らない。

今日も昼間、スクーター・バイクで、さっそうと走っていたら、「友寄さん!」と声を掛けられたので、見たら、何年も会っていない知り合いのギタリストだった。私より3歳若かったはずだが、これまた「お爺さん」になっていた。

「何ですか?お爺さんに用はないですよ。」と言いたかったが、久しぶりに会う人間にいきなり冗談だけは言わないように自戒しているので我慢した。私の悪い癖だ。

(冗談にしては、人の心をぐりぐりえぐる私ではある。たぶん、相手の気持ちになる事がないのだろう。しかし、これも矢沢永吉の「成り上がり」と一緒で、他人が真似したら、ド偉い目に遭うので注意した方がいい。私は、ド偉い目に遭って来たからもういい。)

この間もめずらしく電話が来たので、すぐに冗談を言おうとしたら告別式の知らせだった。1、2度だけ飲んだ事のある知り合いの母親が、交通事故で亡くなった、という。新聞にも出ていた、という話だ。(地元のテレビ局の社長の車に轢かれた、という記事らしい。)慌てて、告別式に行って来た(月曜日)。

ギタリストの彼は、連れの女性が、20代風で、どう見ても娘のような感じの女性が一緒にいて、スクーターを止めて、立ち話ならぬ、停車話をしている私に会釈までした。

何!実の娘が会釈するわけない、って事は、連れかな、それにしても、大分、歳の差があるんじゃないか、クソ!と言った一連の感想が、頭の中をスルーして行った。(男性なら「クソ!」の意味は、わかるだろう。)

腐っても鯛、という言葉があるが、「腐ってもギタリスト」と言う言葉を普及させたいものだ。

たとえ、見かけは、お爺さんになっているにしても、モテるモテない、は別らしい。彼は、昔からこういう事に関しては、マメであった。そう言えば、バツイチで、子供もいた。当然、元妻に引き取られている。それでも20年くらい前の話だ。それからは、常に道で出会うたびに、ああして色んな女性が常にいる。

私は、昼御飯にと、近所のラーメン屋に向かう途中であり、あちらも連れがいるので、1分くらい話して別れた。別れ際に「オレのように20キロくらい太ったらどうだあ~!」と捨て台詞を極めながら去った。

久しぶりに会ったら20キロばかし痩せていたからだ。まあ、20年前は、彼は、それくらいではあったから、それ以降に20キロ太ったわけではある。元の体型に戻ったわけである。

私も、う~ん、痩せるとお爺さんになるなあ、とだけ何となくわかった。
またしても、ダイエットにちっとも有益でない情報が、潜在意識に入った。

いずれ、デカプリ夫、じゃなかった、ディカプリオに「インセプション」してもらって、ダイエット情報を書き換えてもらわないといけないだろう。

そんなわけで、たとえ”お爺さん”であってもモテるモテないには関係ないことが証明された。

おそらく飲み屋をやっているはずだな。だから、本当は、飲み屋の親爺は、お爺さんになってもモテる、というのが、正しい書き換え情報だろう。

これは、サラリーマンなら、うすうすは、感じていた事だろう。今、何人かは、「よし!オレも老後は、飲み屋の親爺になる」と決意したはずだ。

決意したところで、悪いが、最近、流行の成功本に一貫している、「成功した自分をイメージする」と言うイメージ法が間違っている、と言う。私も、そうじゃないか、と思っていた所だ。

自分が、金持ちになっていたり、とにかく偉い人になっているイメージを常に思い描いて、日々を送る、というイメージ法の成功本が大流行だ。しかし、この手の本で、誰も金持ちになった人はいず、幸せになった人もいない、と言う。

なぜ、それが、ダメかというと、どうやら、あまりに成功した自分のイメージを思い描くと、脳は、すでに、それが実現したものとして納得してしまい、段々に努力を怠るようになって行くそうだ。
思い描いているだけで、脳は、満足しているわけだ。

幸せでもないのに、公園でダンボール被っている、成功イメージ豊かなホームレスは、これを温かい羽毛の布団だと思って寝ているわけだ。

お金を稼ぐ方法論も知らないのに、お金持ちのふりをして振舞う「癖」を付けてしまうと、単なる浪費家にしかなれない。こういう人は多いと言う。

実際、矢沢永吉氏なんか、カーネギーの成功の秘訣本一冊しか読んでないはずだ。確か、「成り上がり」にはそうあった。

(デール・カーネギー「人を動かす」だったかなあ。”ヤザワ”が、あれだけ、お金の使い道にうるさい、というのもこの間の糸井重里氏とのテレビ対談でわかっただろう。)

そういう自己啓発の本の著者のほとんどは、そうした本を売ってしか儲けてないから、わけのわからない占い師から、誰でもそうした本を出す。

音楽の世界でもそうだが、挫折しやすい若者は、みんなこれだ。イメージの中の自分は既に成功しているもんだから、脳は、もう満足してしまっているわけだ。これでは、厳しい稽古なんかする気は起きない。

ちょっと考えれば、簡単に誰でもわかる事だ。オリンピック選手は、みんな死に物狂いの練習をして、金メダルを勝ち取っているし、ノーベル賞を取る学者も同様だ。みんな24時間、その事ばかりで暮らしている者たちだ。

そんな中、成功した「ゴール」をイメージするだけで、何ができるのだろう、という事だ。実際に、稽古するか、しないか、でしかないのに、イメージの中で、すでに成功者となっている者が、わざわざ、お決まりの稽古をするわけがない。雪の日の稽古が、イメージだけで、やらなくても良いようになるものでもない。

じゃあ、どうすれば、いいんだ!となるが、そんな事、私に聞いてもわかるわけないではないか!

わかってたら、毎日、映画見たり、ラーメン食べたり、テレビ見たり、お酒飲んだり、マンガ読んだり、こうして、気まぐれにブログを書いたり、フロ~リダのディズニーランドに行ったり、バリ島に行ったりは、してはいない!

ただまあ、何となく、たぶん、これだろうなあ、という事は、うすうす感じてはいるわけだ。世の中、いくら努力したって、できない事も多い。しかし、こういう人たちを見ていると、努力している事自体が、無駄なことをしているように思う。

たぶん、それしか考えられないのだろうけど、根っ子から間違っている事だけはわかる。

だから、全く何の効果も表れないまま、”お爺さん”になってしまっている。

俗に目の付け所が違う、と言うが、そんな感じだ。

目の付け所といえば、この間、爆笑問題の番組で、久しぶりに細木数子を見た。
江原啓之氏の事は、「さあ、どうでしょう」、美輪明宏氏の事は、「恐れ多くて何も言えません」とコメントしていた。
今、人気の”解説屋”の池上彰氏にも触れていた。

共感したのは、「人の税金を使って、これから政治の事を勉強します、という一年生議員がいていいのか!」と言う意見である。これは、まさに目の付け所が違うわけである。

普通、政治の事を身銭を切って勉強して来た者が、国を想って政治の道へ進むべきなのに、当選してから、税金を使って、これから政治の事を勉強しま~す!、という話であるから、確かに、ふざけた話ではある。

細木数子と言えば、相変わらず、表稼業にも裏稼業にも顔が利きそうなのだが、毎日、しょうもない人たちの人生指導を何十年もやり続けている所には脱帽である。

お金なんか腐るほどあるだろうに、ああ、やって毎日、何十人も自殺志願の働かない男や色んな問題を抱えた人たちの「人生指導」をしているわけである。

(細木への相談に15年くらい通っているしょうもない男もいる!どんなに叱ってもダメなようだ。私もダメダメ挫折型生徒に同じ事をしているわけだ!結局、ダメだけど。私のエネルギーを奪うためだけにいるわけだが、これも仕事だ。もちろん、最後は、音信不通で終わるのがオチではあるが、それでもお金を貰う限りは、仕事だから最後まで指導はしないといけない。)

家族の土地を売りたい、と相談に来た長男の話に乗らず、実際は、職場での不満から来ていることを探り当てる所なんか、これは、もう、見事ではあるが、アドバイスと言えば、「墓参りをしなさい!」と、最終的には、宜保愛子 (1932年1月5日~2003年5月6日)と同じになる所が、万人の支持を得る秘訣ではないか、とは思う。宜保愛子 も国民的人気を得ていた。

沖縄の文化では、勝手にお墓参りを親族がする習慣はない。また、してもいけない。

年に1度、親族が揃ってお墓参りをするシーズン(清明祭:シーミー)があって、それ以外に、どうしてもお墓参りしたい人は、本家に行って、これを祭っている仏壇に手を合わせる事になる。(あくまでも親族のつながりが優先であり、祖先は、そのための「大義名分」でしかない。)

しかし、そもそも沖縄には「仏壇」がない。

仏壇は、ちゃんと仏、仏像がないといけないからだ。しかし、沖縄の「仏壇」には、仏像がない。あるのは、位牌(トートーメー)だけである。位牌が、最上段にあるわけだ。だから、沖縄でも確かに「仏壇」と呼んでいるが、これは、「トートーメー壇」と言うしかない。本土では、ちゃんと仏像が、最上段に居座っているから「仏壇」と呼んでよいわけだ。

沖縄では、仏陀よりも「祖先」が偉いわけである。
祖先が偉いのだが、そもそも仏教では、人は、49日で、成仏して、輪廻転生しているはずで、祖先の「霊」は、49日過ぎれば、存在しないはずでもある。

また、告別式で、塩を香典返しで貰ったが、塩は、神道の「穢れの思想」から来ている。死体を「穢(けが)れ」と見ているわけで、これを浄化するつもりで、「塩」が巻かれるわけだが、そもそも、ここからして「仏教」とは関係ない。

仏教と神道が、「お葬式」を共通の「しのぎ場」として、手を組んだ結果の習慣だろう。かなり人為的だから「風習」ではない。

だから、私は、葬式から家に帰って来ても「塩」を使わない。死を穢れたもの、と見ていないからだ。49日までを「御霊前」として、49日以降は、成仏して輪廻転生しているわけだから香典袋も49日過ぎれば、「御仏前」とするというが、亡くなった人が、そう簡単に仏(ほとけ)になっているわけはない。

仏になるのは「解脱」であるわけで、普通は、何かに生まれ変わっているというのが、仏教の考え方なはずだ。

スクーターの荷台ケースに「香典返し」と塩が残ったままだったので、塩は、そのままゴミとして捨てて置いた。

もし、これが、自分の身内が亡くなったとして、これを「穢れ」と見て、塩を玄関前に巻くことができるか、という話だ。そうであれば、穢れているのは、塩を巻く本人の方だと思う。

(しかし、くれぐれも注意したいのは、私の真似をしないように。たぶん、悪霊のバチが当たるであろう~!ちゃんと塩でお清めする事が、世間の慣わしである。)


あれ、何時の間にか、こんな話になってしまった。
え~と、今回は、映画の話ではなかったな。

とにかく、「お爺さん」では、いかん。
もっと、男性諸君も、若返り健康法の事を考えて見てはどうか、と言うつもりの私の話も「お葬式」の話で、非常に爺くさい話となった。

何事もお爺さん的考え方しかできない者は、老けるのも早いわけだ。芸能人が、老けないのは、そもそもが、お爺さんでは、人気商売にならないからだろう。
(もちろん「お爺さん」として売って来たならそれが商品価値としての「売り」だからいいだろうけど。)

一般社会では、早くお爺さんになって、過酷な労働から解放されて隠居したいだろうから、喜んで玉手箱を開ける事になる。これもキリンの首はなぜ長いか、の理論通りだ。(この点で言えば、実は、バンドマンも、老けるのが早い。創造力ゼロの人生でもあるからだ。)

私なんか、もし、同級生でお爺さんになった者がいたら、思わず、「うわ~、よくもそんなお爺さんのふりして暮らせるなあ~!」とすぐに突っ込みを入れるだろう。私には、定年がないどころか、まだ、ちゃんと就職もしていない。だから、ずっと浪人生の気分だ。(気分は、なつかしの、「素浪人月影兵庫」だな!)

よし、9月の最後の午後の昼下がりにブログ・ノルマ達成だ!

今週の日曜日に、午後5時から飲み会があるから、今の内に原稿もブログも達成しておいているわけだ!
お迎えが来て、糸満市まで行って飲むわけだな!
送り迎えは、馬があれば、便利ではある。

さて、これからまた深夜まで原稿執筆だ!
残り、5分の1。

来年の2月くらいに出版予定だそうだ!
だから、来年も良い年と決まっているから、そろそろ再来年の事を考えないといけないだろう。




同じカテゴリー(宗教と道徳)の記事
Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │宗教と道徳人生論雑談集