2010年09月18日

おお、やはり、そなたはロミオか!と芸能界の抗争と適視適評

さて、原稿執筆もちょっとひと段落したので、と言いたいが、人生にひと段落などない。
これが、終われば、これ、この次は、これ、と次から次へと課題山積みだ。

そんな中、ひゃあ~、こりゃたまらん、と、映画を見ることにした。上映時間の関係で、またまた、デカプリオは、見れなかったが、スタジオ・ジブルの新作「アリエッティ」を見た。

その日は、なぜか久しぶりで、メーザー・ハウス時代にギタートリオを組んで、1990年頃、「市川りぶる」でライブをした事があるベーシストの東京生まれ、東京在住の須川こういち君から、メルアド変更のメールが来たので、これからオレは「アリエッティ」を見に行くのだ!、と意味不明に自慢した。

制作過程の顛末をドキュメンタリーでやっていた番組をテレビで見ていたので、おお、これが、あの新人監督の作品か、と見た。午後6時10分の上映にぎりぎり間に合った。今回は、ポップコーンとアイスコーヒーだけで、ホットドッグを我慢したのだが、不満ではあった。そんな時間にホットドッグまで食べると夕飯が食べられなくなるかもしれない、という危惧があったからだ。

やはり、映画は、昼間、昼食がてらホットドックを2本くらい食べつつ、ポップコーンもLサイズで、心おきなく見たいものだ。

おっと、映画の話を忘れていた。

平日のこの時間のせいか、ほとんど人がいない。まず子供がいない。嫌、前回のベスト・キッドと同じ時間帯か。あの時は、けっこうな人だった。子供もいた。

ちょっとだけ事前にインターネットで評価をチェックしたら、何とも言えない評価ではある。
以前、私が、「時々日記」でも触れて勧めた地元のラーメン屋をチェックしたら、激しい論争が繰り広げられていた事がある。

「あそこは、まずい!」「いや、私は、美味しいと思う!」「親爺の態度が無愛想だ!」「いや、親爺は、気さくだ!」「出て来るのが遅い!」「あれこれユンタク(お喋り)しているとちょうどよかった!」「いや、この間は、スープが、ぬるかったぞ!」と、賛否両論である。

おっと、またまた映画の話を忘れていた。

映画は、けっこう楽しめた。たぶん、様々な哲学の上に制作されているのだろう。
これも3D映画「アバター」同様、左脳的にストーリーは、どうでも良い話に思える。

家に絶滅危惧種の ”ジャズ・ミュージシャン” ではなく、”小人”の家族が密かに地下に住んでいるわけである。

役者ではないが、アフレコの声を担当した樹木希林に同情票がかなり入るだろう。何しろ、この映画では、悪者は、樹木希林だけなのだから。後は、みんな良い人たちだ。すべては、樹木希林だけが悪いわけだ。おまけに、アニメ化された人物も樹木希林によく似ている。

そんなわけだから、ストーリーは、どうでもいい、とした方が良いだろう。ストーリーをとやかく言うのなら、せっかくの家を放棄して出て行く理由も弱い。すべて樹木希林のせいになってしまう。とにかく徹底して、樹木希林が悪い。

そう考えると「アバター」なんかもストーリーなんかどうでも良い。単なる、現代版のインディアンと騎兵隊が戦う、西部劇のようなものでしかない。

そういう映画だと言うのに、何と、「アバター」をレンタルして、自宅で見た、という哀れな者がいた。3Dでもない「アバター」を自宅のテレビで見て、何が面白いのだろう。

適材適所と言う言葉があるが、適視適評、という言葉はない。芸事は、それに適した見方と、適した評価があるのではないか、という私の造語だ。

「アバター」と「アリエッティ」に共通しているのは、映像だろう。ディテール(細部)にこだわった描写かなあ。
そう言う風に見ると、これまでずいぶんと「汚い」映像のアニメばっかり見たなあ、という気がしないでもない。
ストーリーばっかりに興奮して、肝心の映像なんか気にしていなかった。

遠い記憶だが、子供の頃見た、ロシアの監督、タルコフスキーだったかなあ、彼の映画の映像なんか覚えている。全体を通じて「静」の映像だ。タルコフスキーを思い出したのだ。

「アリエッティ」は、映像美を意識し感じさせる設定ばかりあった。いかにも、これは、ちゃんと描かなきゃいけないなあ、という豪華な家具のセットだ。祖父が、小人たちのためにわざわざ家具職人に作らせた、という小人用の家と家具があるわけだ。そんな台詞の後に、汚い画の家具の映像は出せないから、これは、わざわざ製作のアニメーターたちのハードルを上げるような台詞だ。

原作は、イギリスの小説と言うし、脚本は、宮崎駿だから、新人監督、という米村宏昌監督は、何も悪くないんじゃないか。ベストを尽くしたと思う。そういう事にこだわった映像なわけだし、実際、目を閉じて、あの映像が浮かぶか、が3年殺しの技かもしれない。

毎日、ああ言う映像を常に流しながら子育てでもしたら、みんなアリエッティのような女の子になるんじゃないか。良い事だ。

私に取って、本や映画は、非日常の体験ができれば、それで十分だ。それだけで脳の刺激になるので、頭がリフレッシュされる感じがある。

思考を停止して、子供のように映像だけに身を任せる事で十分で、その点、マンガも同じような感じであるが、やっぱり、「アリエッティ」のようなマンガが描かれたら、「ああ、今まで、何て、汚い画のマンガばかり見て来たんだろう」と反省してしまう。

これは、音楽でもある。今まで、いくら流行だからって、なんてぇ、音楽をオレは聴いていたんだ!と言う発見と後悔である。

そんなわけだから、実際の役者の行っているつまらないストーリーの映画よりは、断然、こうした映画が、好きだ。

もし、映像なんかよりも、ストーリーや脚本にこだわる、としたら、クリント・イーストウッドの「グラントリノ」くらいの映画を作って欲しいものだ。

という事で、別に映画評論家でもグルメでもないので、娯楽性があればいい。

そういえば、7月14日放送の題名のない音楽会の「14歳をテーマにして」の回で、青島教授の「ロメオとジュリエット」の「ロメオ」発言に苦情をブログで述べた。(7月13日のブログだ、あれ、放送日と日付が合わないなあ。)

しかし、あれから8月22日の回の「アレンジ・バトル、2010~もしもこの映画が○○だったら」のアレンジャー・バトルの回があった。

そこで、番組お抱えのアレンジャーの一人、作曲家の渡辺俊幸氏が、「もしもバック・トゥ・ザ・フューチャーのタイムマシンが中世のイタリアに行ったら」というタイトルで、何と、「”ロミオ”とジュリエット」として、しかも、チャイコフスキーでもプロコフィエフでもない、あの映画版「ロミオとジュリエット」(1968年作曲:巨匠、ニノ・ロータ!)を取り上げていた。

何と言う事か。氏も「ロメオ」発言に憤りを感じていたのか、それとも番組全体が、私に謝罪したのか、これは不明だが、これでスッキリした。しかも、明日、19日は、音楽作品に勝手に付けられた曲たちの「 ”題名” を考える。パート2」とある。
「ロメオ」問題に触れるか楽しみだ。

という事で、今週やってたのか、明石家さんまの関西ローカル番組「痛快!明石家電視台」の20周年記念、2時間生放送を見ていたら、爆笑問題が、ゲストで出ていた。

しかし、ここのレギュラーの”雨上がり決死隊”の宮迫が、太田の事が、嫌いらしく、露骨にののしっていた。

太田は「オレは、宮迫が好きなのに!」とやり返していたが、これに同じく次長課長の河本も「おめぇ、うるせぇ!」と同様な発言をしていて、それを明石家さんまが、とりなしていた。

太田は、つぶやくように、さんまに「自分の番組でもアウェイですからあ。」と陽気に振舞っていた。

どうも、それ以来、太田に同情して、「アメトーク」で宮迫を見る気がしない。

まあ、ダウンタウンとは、仲が悪いと芸能界暴露本にあったりするが、どうも、バラエティの番組で露骨に芸人同士の仲の悪さを見るのは、面白くない。

ましてや、20周年と言う事で、お祝いの番組だと言うのに、私のようなプロの視聴者は、残念な後味でしかない。
せっかく、花子が活躍して面白かったし、爆笑問題の太田もサービス精神旺盛で、トークも抜群に面白かった、と言うのに。
宮迫の活躍なんか大した事がない。番組全体の100分の1だ。40パーセントは、花子の活躍で、残り、59パーセントは、太田の活躍だ。

大物芸人と言えど、吉本系の後輩芸人から、ああも毛嫌いされているわけだが、これは、かつてのビートたけしと星セントルイスのバトルを思い出す。やはり、お互いが、同時代に生きるってのは、先輩後輩関係なく、感情が剥き出しになるようだ。

そうやって、50代に入り、結局、生き残って、まだ、テレビ界に君臨しているのは、明石家さんまや島田紳助、ビートたけし、タモリ、という感じに納まって来たのだろう。50代に入ってまで、キャーキャー言われるってのは、芸人では、相当な大物クラスでないと不可能だろう。

漫才ブームの時、あれほど、同世代のお笑い芸人たちが、今の「レッド・カーペット芸人」のように闊歩していたが、結局残ったのは、たけし、さんま、タモリのビッグ3でしかないわけだ。あの島田洋七だって、君臨できなかったわけだから、相当なオーラがないといけない。

今のところ、ダウンタウン、とんねるず、うっちゃんなんちゃん(う~ん)、爆笑問題と言った所だろうか。そう考えると、この顔ぶれは、不動である。

まだ、誰も50代には突入していないが、まあ、この芸能図は、このままだろう。ああ、そうか、ナイナイもいたか。しかし、彼等は、大物感がない。老若男女、すべてのファンがいる、とも言えないから、まだまだわからない。
同世代のファンは、当たり前である。あっ、忘れていた。ロンブーがいたな。しかしなあ、そもそもの話芸がない。企画力だけで、笑わせた事がない。

テレビでのののしり合いと言えば、おすぎとピーコ VS 美輪明宏 ではあるが、最近は、カットされているのか、そうした発言はない。

以前、ピーコと誰だったか、もう一人が司会の特別番組があって、芸人の波乱万丈を取り上げる内容だったと思う。ほとんどが、ゲストでスタジオに訪れるというのに、美容家のイッコーさんは、VTRだけで、現れなかった。しかも、VTRでは、「私は、オカマと呼ばれるのが一番嫌だった」と発言していた。

ああ、なるほど、これかあ、と納得。
おすぎとピーコと言えば、”テレビに出たら、必ず、何度か”オカマ”と言う言葉を連発して、一般を洗脳して「オカマ」という言葉を普及させる作戦”に出ている兄弟だ。

なぜ、そんな作戦を実施しているか、と言えば、美輪明宏が、「私は、生涯を掛けてオカマと言う言葉を無くして行きたい」と発言しているからだ。

双子兄弟は、何があったのか、あの世界では、ありえない突如の反美輪派への「転向」であるわけだ。

私は、こうしたおすぎとピーコ(昭和20年1月生)、美輪(昭和10年5月生)抗争に対して、全国の夜のニュー・ハーフ界の隠れドン、美輪派のカルーセル麻紀(昭和17年11月生)は、どう出るのか、とまさに映画「仁義なき戦い」を見ている気分で、この様子を見ている。

イッコーさんは、とりあえず、「オカマと言う言葉が嫌い」と露骨な発言をして、ピーコ司会の番組に生出演をしていない。

そうやって、私が網を張っていたら、またしても一匹、元振り付けダンサーと言うカバちゃんが、しばらく外国へ行っていたらしく、久々にテレビに出て来て、いきなり「私は、どうせオカマ」発言を連発した。

意外に、繊細じゃないんだな、と思うと同時に、これは、おすぎとピーコ派と言うことで、と派閥ノートの書き入れた。はるな愛も、自分の事をOKM(オカマ)48と名乗ったのだが、これは、半分ジョークなので、まだどちらの派閥かは、不明だ。
あるいは、まだ、こうした闇の抗争に気づいていないのかもしれない。ファッションからして、「オカマ」派ではないし、芸を見せることから美輪派ではないか、と思うのだが、今後の言動に注意したい。

しかし、和気あいあいとしたお笑い芸人の世界も裏では、ああした派閥抗争があるわけで、そんな事を考えると、いかに「朝まで生テレビ」が、まだ、正々堂々とののしりあっているか、と言える。

音楽界にも派閥があるし、お笑い界にも派閥があるし、どこへ行っても派閥と抗争ばかりだ。
もう、誰も、戦争反対とか、言ってくれるな。
そんな大そうな運動をするより、嫌いな人と朝まで生テレビしてもらいたいもんだ。

朝生と言えば、この間も凄いバトルがあった。

30代後半のオタク系、哲学系、大学教授系の男に、あの常連の団塊の世代モーレツ社長が、「君の話は、まわりくどい。つまらん。もっとはっきり結論を言え!」と言ったら、怒って一時、退場して行ってしまった。親爺への反発だ。

ディベートができない哲学者なのかもしれない。何人もの社員を束ねるオジサン社長は、アメ~リカ仕込みのディベートを挑んだというのに。そういう事も古臭いと思っているのだろうか。頭脳は、ネットだけで使えばいい、という派だ。オジサン社長は、一緒にお酒を飲んだりしないと一人一人の人間は、わからない、という人情派な感じだ。(日本には、ディベートは好きでも人情派はいる。)

ああ、そうか。関西ローカルの明石家さんまの番組は、20周年記念で生放送だったから、朝まで生テレビ状態で、爆笑問題に対しても、宮迫からの太田へのストレートな発言があったわけか。

(沖縄は、私の子供の頃から関西ローカル番組をやっている!私は、関西ローカル番組で育ったようなものだ!初期の岡八郎の吉本新喜劇から、ドラマは、「どてらい奴」からやでぇ~!。)

という事は、我々、一般市民は、何もかも番組の「編集」で、その実体を明かされていないだけなんじゃないか。
実際は、宮迫発言のように、カット、カットすべき発言が、多いのではないか。

何だろうなあ。この感覚は。

あまりにも建前の「平和」「平和」発言に、ちょっと「平和ボケ」してしまっているんだろうなあ。
世の中は、何時だって、どこだって、「抗争」の真っ最中だと言うのに。

ああ、そうだった。
私だって、何かと抗争中であった。
どうも、自分の事は棚に上げて、他人に対しては、平和を求め過ぎているのかもしれない。

そういえば、ウィントン・マーサリスのマイルス・デイビスヘの罵詈雑言も凄かったなあ。
ハービー・ハンコックにまで楯突いていたしなあ。

そんなわけで、世の中からは、差別も抗争もなくならない。
たぶん、世界中のあらゆる事象は、どっかで、何もかもが、「編集」されて、我々の前に届けられているのだろう。

キロロの歌ではないが、ほ~ら、足元を見てごらん、、だ。

そんな世間よりも前に、家族間、親戚間、バンド間でも、すでに仲が悪いわけだから、そもそもが、仲が良い、という事自体が、奇跡に近いのではないか。

という事は、本来、どうせ人工的であるとするなら、動物園で、トラとライオンが共存している檻だとか、熊とパンダが、共存しているとか、そういう実験を試行錯誤して見る価値はないだろうか。

テレビの中もそうした、一種の動物園である、わけだ。
どうやら、長い間、騙されていたようだ。

我々は、すでに編集された戦場を理想の「平和」として見ていたのかもしれない。

さて、録画した番組でも見つつ、私の今の戦場である原稿執筆に戻るとするか。。
もちろん、このブログも、戦場の一つではある。
酔っ払いつつも、まともに文章が書けるか、という実験を10年ばかし繰り返しているわけである。

しかし、これだけは、良い子の皆さんは、真似しないようにしてもらいたい。
書かれた文章は、レコーディングした演奏と同じで、一発勝負であるし、こうしたブログ生放送で、ミスをしたら命取りである。

ああ、そうだ。

この間のNHK番組での矢沢永吉、糸井重里の「お金トーク」でも、糸井氏が、「永ちゃんの”成り上がり”の本を読んで、いかに多くの人が、これを真似して芸能界から消えて行ったか、、」と言っていたが、確かにそれはある。(しかし、「成り上がり」の本を作ったのは、糸井氏ではある。)

糸井氏は、さらに、「永ちゃんは、なぜ、(あんなに両親もいなくて、貧乏だったのに)、ちゃんと立派に生きてこれたの?」というような質問をオブラードに包んでしていたが、永ちゃんは、私と同じ涙目なのか、それは、自分ではよくわからないとした。

「でも、これをやったらダメだとか、普通、わかるじゃない」、と答えた。
永ちゃんは、両親が離婚して高校まで、貧乏な祖母に育てられている。

糸井氏や永ちゃんの世代には、連続ピストル射殺事件で4人を射殺し死刑となった永山則夫(1949年6月27日 ~1997年8月1日)がいる。

永山の幼い頃、母親にも捨てられた貧乏で不幸な生い立ちが、犯罪に走らせた、と当時は、言われた。

大言壮語を吐く、という意味での、永ちゃんの「成り上がり」の真似をした、と言えば、押尾学もその一人だろうけど、田代まさし、清水健太郎と同様、今回は、ノーコメントとしておこう。

人間が、人間を変える、と言う事は、不可能ではないか、と彼等を見ていると思ったりするのだが、様々な、人種を展示しているのが、芸能界でもある。

芸能の原点であるのか。
生産を生業としていない。
ある種の見世物小屋的である。

これからは、3Dで見る事ができる見世物小屋が、テレビの事であり、その中に見世物としての「生き物」たちが、棲息しているわけである。

こうした事が、原点であるから当然、何もかもが、成立する世界である。

サファリ・パークもスリルを求めて、動物たちを見学するわけであるが、何となく、やっぱり、「アリエッティ」かなあ。

映画「アリエッティ」には、何もない。あるのは、手間隙を掛けて作られた映像でしかない。草木の一本、一本の線でもある。

もっと、我々は、年月が費やされた「芸」を評価できる目を養いたいものである。
たとえ、それが、一瞬で終わろう、とも、である。

この一瞬の技は、一体、どれだけの時間を費やして、完成したのか、という「観の目」持つ事が大切ではないか。

諸君、技術料を値切ってはいかんぞぉ~!
だから、当然、私も、ギャラの値段を下げない。

そのためか、ここ20年ばかり、バンドマン業の仕事がないわけである。
しかし、それは、私のせいではない。
観の目を持つ人オーディエンス(聴衆)がいなくなって来た、というだけである。

ということで、現在、執筆中の本は、一般向けの音感教育の本でもあるので、ジャズ関係に限らず、即効で、購入してもらいたいものだ。

けっして安売りするつもりは毛頭ないが、たかだが、1600円くらいの映画料金を払ったからとあれこれ文句を言うのも貧乏くさい話である。

それくらいの料金のまずいインド・カレーなんか、あちこちにあるんじゃないか、と思うわけだが、そもそも、我々、酒飲みは、1600円程度を持って、最高に楽しめるとは思っていないわけでもあるし、一体全体、何が、自分のためになるのか、という話は、簡単には言えない話でもある。



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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │修行&音楽人生論テレビ、映画