2010年08月21日

祝・興南高校・我喜屋監督の祖国貢献

もう、何年も前から毎日読んでいるブログがあって、これが、私以上に文面が長い上に毎日ブログを更新している。2006年辺りに著者が本を出した際にホームページのアドレスがあったので、それから見るようになったわけだ。本が続々と出るにつれ、だんだん三日置きくらいの更新になって行くのだが、それでもけっこう長い。

それが、最近、「執筆が遅れているためにブログをさすがに、しばらく休みます。」というような感じで掲載されていた。おお、この台詞は、かっこいいなあ、と思っていたのだが、最近、朝起きたら相変わらず昼で、それでもすぐに、昼はテレビを見ながら、夜はお酒を飲みながら朝方まで原稿執筆に追われている。よし、オレもこの台詞が使えるなあ、と考えたが、売れる本を書かないと同じではないので、こうして、営業活動の一環としてのブログも時折、書かないといけない。

もしも、もうそろそろ、締め切りだと言うのに、私が、いつものように長~いブログを更新していたら、これは、まずいわけである。原稿の方は、頭の中にある全体の構想の内のまだ3分の1程度を送ったくらいだ。これが出版されると音楽教育界が、ひっくり返ってしまうので、命も危ない。その時には、海外にでも逃亡していないとまずいだろう、とは思う。

いや、待てよ、、どんな事でもそうだが、それができる先生は、それを当然教えるだろうし、それができない先生は、それを黙殺するしかない。特に、教え慣れしている者は、プライドの高さから、学ぶことができなくなってしまっているから、ますます新しい能力は身に付かない。という事で、本は黙殺されるので、命を狙われるなんて事はない、という結論になるから、海外逃亡も必要ないか。

しかし、最近、何であんな下手なピアニストを伝説扱いにしているんだあ~、この島を代表させているのは頭がおかしいだろ~、と書いてしまっている。本当に取り上げなくてはいけない人間の存在には、誰も触れようとしない。そのまま故人となった。

これは、なんて下手なんだ!という話は、島の先輩ミュージシャンの間では、常識であったわけだが、遠慮して誰も指摘しない。特に、同業のプロ・ピアニストの間では、考えられないはずだが、そもそもプロのジャズ・ピアニストと呼べる者自体が、5人から10人くらいしかいない。(10人もいないか。私のカウントでは、3人程度だ。)しかし、全員、偉人の巨匠より年下だから、当然、何も言えない。年長者には逆らうな、という長年の儒教の教えの賜物である。

そんな、キチガイ村の村長、(じゃなかった、、巨匠だったな!)、、その偉人巨匠は私の認定でも8級くらいなのに、とうとう神様のいたずらで、伝説のミュージシャンになってしまったようだ。絶賛しているのは、音楽関係者ではない。元、店の常連のお客様連合だ。(彼等の本当のお目当ては、お酒としかいいようがない。)

巨匠と、この店に呼ばれて演奏した事がある、縁のある本土側のミュージシャンは、これに対しては、かつての海外タレントの来日公演でのリップ・サービスと同じで、「ハイ、ニホンノ ミュージシャンハ、ミンナ スバラシイデス!」というコメントまで述べたりしているから、実体は、ますます闇の中だ。催眠術にでもかけない限り、わざわざ呼んでくれた店の悪口を言う人もない。

このまま100年も経てば、銅像が立ち並び、語録が出版され経典となり、新興宗教の教祖にでもなるか、と思うほどである。

不幸にしてか、幸いか、私は、店の常連でもなく、20年ほど会った事もない。(10年ほど前か、トンカツ屋で、偉人巨匠夫婦と隣同士になったことはある!知らないふりをしたが、、。)

何度も言っているが、巨匠が不在の時、私が、トラで演奏を4,5回ほどしたわけである。それなのに、私が、たまたまメンバーに用事があって訪れたら偉人巨匠妻にミュージック・チャージを毎回取られた!

(常々、自分たちが一番偉い、と思っているからこういう事が起こるわけである。しかし、その店全体が、なにやら、別世界の空気を放っていたので、この空間は、何か妙だな、と髪の毛が一本立った記憶がある。)

何の恩もないので、だからこうやって真実が語れるわけである。それに、こうした事を語るだけで、ますます干されてしまうわけだが、”ミュージシャンと掛けて、干されるととく、その心は、、、

「ますます出汁が効いて行くでしょう!」、、トモッチでしたあ~。(やっぱり謎掛け脳タイプだったか。。)

今回もふざけている場合ではない。真実を語ることは、常に、四面楚歌を覚悟していなくてはいけない、という話だ。最近、このことがようやくわかった。50歳過ぎて、ようやく少し、世の中の摂理が見えて来たわけだ。

かつて、10年ほど前か、もっと以前か、田原総一郎氏の「朝まで生テレビ」で、特攻隊だったか、戦争全般だったか、そうした人たちの回があった。番組は、「生放送」を辞め、異例の「録画放送」だ。発言で、まずいことがあったら大変だからである。

全員、70歳、80歳代なのだが、その時の発言で、一人の老人が、印象的な言葉を吐いた。「戦争について言いたい事が、あっても、まだ先輩なんかが生きているから、喋れない事がたくさんあるのです!」と言った。
戦友会と言うのもあるのだろう。昔から日本は、先輩後輩を重んじる国ではある。

しかし、こうした箇所が、NHKでは、大幅にカットされていそうで、あまりショッキングな発言でもないのだが、それでも「玉砕」を美化した話には、まだまだ衝撃発言が隠されていそうである。

今回の番組で証言した老人は、若くても88歳、一番年長者で、95歳がいたが、これを敗戦の1945年当時にさかのぼれば、65年前になるから、88歳は、23歳くらいで、95歳でも30歳くらいになる。みんな一般の歩兵だ。

「まさか、生きている内にこんな事を語るとは思ってもみなかった。玉砕できなかった自分が、戦友に対して恥ずかしい」と言う言葉を残している。なぜ、玉砕できなかったかは、語られていない。

あの「朝まで生テレビ」での発言を思い出すと、今、ようやく、先輩たちが、亡くなったため、当時の事が語れるようになったのだろうと思う。それが、88歳にしてやっとだ。先輩たちが、何を戦時中にしたか、という証言だろう。大体、10歳年長あたりから、地位も分かれて来るから、すでに「先輩」たちが、いなくなり始めた、という事だろうが、それにしても長い沈黙である。真実を知るには、それだけの時間が掛かる。

昨日も、「ニュース・スクープ」で、東京ローズの真実を見た。戦時中、米兵の士気を低下させるために日本からの放送で、女性の声での英語放送の娯楽番組を流す、というプロパガンダ作戦があった、という。その女性アナウンサーを”東京ローズ”と戦地の米兵たちは呼んでいた。

しかし、本当の東京ローズの候補は、5人いて、その中の一人、米国生まれの女性は、アメリカ当局に東京ローズにでっちあげられ服役させられた。

調査の段階で、本物とされたのは、20代の東京ラジオの英語放送の女性アナウンサー。しかし、終戦後、米国生まれの日本人女性のでっち上げ裁判が米国で行われ、それが終えた後、この英語が堪能な日本の女性アナウンサーは、27歳の時か、横浜で映画を見ての帰り、酔った米兵の車に轢かれて亡くなっている。

その事件を記録したものは、米軍にも日本の警察にもない。東京ローズの妹と同僚の日本人男性アナウンサーが、現在も生きているので、当時の事件が語られたわけだ。まさに都市伝説のような話である。いや、国家伝説か。

そんな最中に、今日の興南優勝である。

興南の話は、2009年3月27日の「過去の時々日記」で、イチロー選手の活躍に触発されて触れた。突然、思い出したからである。

3月27日(金):祝サムライジャパンと40年前のサムライ、後記:野球村の村長たちと現代のサムライ


1968年の夏の甲子園だ。

*第50回(皇太子御夫妻招待、記念大会)甲子園

第2試合、VS岐阜南:8-5、

第3試合、VS海星(長崎):4-0、

第4試合(準々決勝)VS森岡:10-4、

と快進撃を繰り返し、興南が勝ち進む。しかし、、

第5試合準決勝、VS興国(大阪):「1968年8月9日」

無念の14-0と惨敗。



興南高校は、あれから42年で優勝を掴んだ。
当時、私は、9歳だから、小学校3年生だ。小学4年生から野球少年になった。

この優勝は、高校球児の「素直さパワー」も当然あるが、何と言っても我喜屋監督の執念と監督としての知識、采配の賜物であろう。
優れた指導者と素直さパワーが合体すれば、いかに、とてつもない力が生まれるか、という見本であると思う。

私たちスポ根(スポーツ根性物語漫画の時代)世代の闘志も1968年の我喜屋キャプテンの根性で始まったようなものだ。当時は、まだ1972年の本土復帰の4年前になる。

我喜屋氏は、どんな状況であっても頭角を現し、その采配を振って来ている。以下は、我喜屋監督のこれまでの人生を短くまとめた新聞記事のようで、ネット検索からコピペ。



我喜屋優監督
 沖縄県勢で初めて夏の甲子園に出場したのは1958(昭和33)年の首里高校だ。初戦で敗れたナインが持ち帰ろうとした甲子園の土は、植物検疫法に触れるため、那覇港で海に捨てられた。米国の統治下だった時代の悲話だ▲その10年後、沖縄代表の興南高校が甲子園でベスト4に入る旋風を起こした。このときの主将で4番打者が今年、24年ぶりに興南高校を甲子園に導いた我喜屋優監督だ。我喜屋さんは高校を卒業後、静岡の社会人野球の強豪、大昭和製紙に入社し、72年に転勤で北海道白老町に移った▲沖縄育ちの我喜屋さんには経験のない寒さが待ち受けていた。だが、その地で34年も野球漬けの日々を過ごした。栄光と挫折も味わった。74年に大昭和製紙北海道は都市対抗で優勝、北海道に初の黒獅子旗をもたらした。一方で、不況のためチームは何度も休廃部の危機に見舞われた▲監督就任3年後の93年、ついに廃部が決定した。だが、野球好きの白老の住民は我喜屋さんや選手たちを見捨てなかった。地元企業や自治体が資金を集め、クラブチーム「ヴィガしらおい」として復活。結成2年目の95年に念願の都市対抗に出場した。地元への何よりの恩返しだった▲我喜屋さんは97年のチーム解散後も北海道に残り、野球指導や講演に走り回った。こんな縁も生まれた。隣接する苫小牧市の駒大苫小牧の監督に佐賀出身の香田誉士史監督が就任すると、慣れない雪上トレーニングを手ほどきしたのは我喜屋さんだ▲昨年夏、母校からの監督就任要請に「体力的にも最後のチャンス」と決断した。就任4カ月で沖縄代表となり、甲子園の初戦も突破した。広陵に負けた駒大苫小牧の借りは自分たちが返す。我喜屋さんはそう思っているに違いない。(毎日新聞 2007年8月12日 )


インチキ・プロフィールをでっち上げるだけで、誰一人、まともに育てず、君臨だけして来ただけの”大将”ばかりが、多い中、本物たちは、必ず、この島を離れ、外の世界で一人、密かに自己を鍛え上げ続けている。これも、私の観察通り。

ジャズの世界で言えば、アドリブもできない生徒ばかりを大量生産してなお、今後も「これがジャズだ」とばかり、大量生産されて行く状況は、一体全体、誰が作り出したのか、という反省もないまま、延々と「負け」の歴史は続くわけである。
元々、できない者が、自分を超えることのないように、さらに、できないように教え続けた結果の歴史である。

しかし、本物の指導者は違う。

我喜屋監督のいきなりの出現で、あっと言う間の快進撃である。

キャプテン我喜屋氏が活躍したあの当時、9歳の私たちは、次は、自分が、全国で闘うのだ、と決意し、やがて成長し、様々なリスクを負って、島を飛び出したわけだ。それは、一つの冒険であり、チャレンジだった。無謀でもあったが、私の前には、何のレールも敷かれていなかったからだ(それは、現在も変わらない)。良い指導者がいなかったから、自分から飛び出して、良い指導者を求めての旅に出たわけだ。

あれから、この島は、様々な芸能人も輩出して来たが、彼等にも共通するのが、未知の土地で闘うための人知れない努力である。安室奈美恵、ガレッジ・セールなども同様だろう。人知れない努力は、かなりのものだろう。

近年は、当時と違って、すでにこうした芸能人も少しは輩出して来たので、「次は自分たちだ!」と使命感を持った少年少女が、どれだけいるのだろうか。私の観察では、二極化して行く一方である。がんばる人、がんばらない人である。当時は、県民全体が、その使命感に燃えていた。

70年、80年代は、過去に4人だったか、世界チャンピオンを輩出した、沖縄ボクシング王国伝説も始まったが、これも県内だけでは、達成できていない。みんな本土に渡り、東京の大手ジムで、ハードなトレーニングの末に達成している。(県内からチャンピオンを出す、という事にこだわった元世界チャンピオンの平仲氏もいるが、その夢は、まだ実現していない。)

二極化とは言え、五分五分ではない。どんな世界も全体の2割程度が、支えている、と言う話だ。会社でも組織でもそれは変わらないという。8割は、この2割の者たちのおかげで暮らせるらしい。つまりは、2割の人が、がんばっていて、残りの8割は、それに便乗しているだけだ、というビジネス界の法則があるそうだ。(20ー80の法則)。

我喜屋氏は、1968年の夏の雪辱を果たした。我喜屋理論を実現してくれる素直な若者たちにも恵まれた。しかし、これが、指導力に依るという証拠に我喜屋氏の様々な指導法の工夫もある。

1日たりとも休む習慣を付けないために、と雨の日は、雨靴を履いて練習させたり、晴れの日には、カッパを着て、わざと汗を掻かせながら練習したという。どんな過酷な環境にも左右されないためだと言う。(我喜屋氏は、長年の北海道暮らしで、極寒の中、練習に励んだ。)

私自身が、こうした事から学ぶ事は、力のない指導者は、その世界に君臨することばかり考えず、その地位を優秀な指導者に明け渡してやる事くらいが、未来の子供たちのためにしてやるべき事ではないか、という事だ。

芸の道は、3年続けるよりも、3年掛けてでもいいから、良き師匠を探せ、と言う言葉がある(本当は、「武の道は、」である。)。

興南高校は、我喜屋氏が、卒業してから、2007年まで、実に40年以上の月日を掛けた、という事になるのか。
良き指導者が、育つにしても、長い時間の掛かる話ではある。

最低3年は、この島を出て修行して来た者、という条件は、やっぱり、譲れない。(我喜屋氏は桁違いの期間ではあるが、、。)
もちろん、伝統に根ざしたものとは、違う芸事の話ではある。

高校球児に取っては、3年間の闘いではあるが、我喜屋氏に取っては、40年以上も掛けた野球人生との闘いでもある。
その上に、せっかく指導しても、選手は、3年毎に戦力が入れ替わるわけであるから、いかに物事は、指導者に掛かっているのか、と考えると、我喜屋監督の野球人生にもまた、休日なし、が実践されているわけだ。

これまで恥ずかしく思う事ばかりであったが、久々に本物の人物の存在を知って、県民として誇らしい限りである。

しかし、これって、明治時代の琉球人の世界ではないか。
多くの優秀な武士が、島を出て、異国の地で闘って生きた時代がある。
(東京の有名大学の学長になっていたりする。多くの琉球人が世界中に渡っている。)

そう思えば、その中の一人の武士が、帰って来て、島の子供たちを鍛え、祖国、琉球王国に貢献させたって話だ。

私も9歳の頃からだから、あれから、42年、私の一人だけの闘いは、まだまだ終わる兆しもない。

さて、原稿を書きに戻るか。。

とりあえず、緊急、便乗祝杯ブログである。


あっ!そうだ。10年の歳月を経て、密かにホームページをリニューアルしたのだが、この話は、まあ、いいだろう。
これから出会う人たちは、そこから始まるわけだ。
未来の準備ために今があるわけだ。
だから、その準備に毎日、忙しいわけなんだな。

我喜屋優氏に乾杯。




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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │修行&音楽天網恢恢テレビ、映画