2010年08月07日

誕生日の過ごし方

う~む、とうとう、なっちまったかあ、感がある。

8月4日は、誕生日だった。

一つ歳を取ったせいか、目がかすんで、あまり前が見えない。
なんだか、足もフラフラでおぼつかない。

この間、ヘヘヘ、、と歩いていたら、見覚えのある滑車の付いた買い物カートに持たれかかりながら歩いて来るオバサンがいた。

よく見ると近所のスーパーの買い物カゴを乗せるカートではないか。方角は、確かにスーパーの方を向いてオバサンは歩いているから、そのスーパーに行くのだろう。

それにしても、あのカートを毎日、家まで持たれかかって持って帰っていたとは驚きだ。
あれが、年寄りにありがちな杖代わりのカートもたれ歩行作戦というのはすぐにわかった。

それにしても、マイ・カー通勤は聞いた事があるが、マイ・カート通勤は、初めてだ。
前面のプレートには、堂々と「MAX VALUE (マックス・バリュー)」と表示されている。
あそこまで堂々とだと、なんだか、高級車のようにも見えて来る。

今日は、余計なことは、あまり書かないでおこう。
恒例の誕生日の過ごし方の話をしないといけないからだ。
まだ、普及していないらしく、生徒の中にも私と同じ誕生日だと言うのに、まったく忘れている者もいるくらいだ。

私は、これまで、誕生日と言うのは、他人に自分の誕生日を祝ってもらうために、自分から奢る日だ、としていたのだが、2008年に徹子の部屋に出た永六輔氏の話で変わってしまった。

永六輔氏(1933年4月10日生)とさだまさし氏(1952年4月10日生)が、誕生日が同じと言う事で、これまた二人と同じ誕生日である映画評論家の淀川長治氏(1909年4月10日~1998年11月11日)の誕生日を祝福しよう、と言うことで、淀川氏の家に行ったという。

確か、永氏の長年の作詞作曲のコンビであったジャズ・ピアニストの中村八大氏(1931年1月20日~1992年6月10日)もなぜか一緒に同行したはずだったが、この辺うろ覚えかもしれない。なぜ、誕生日が違う中村氏がいたかが謎ではあるからだ。

そうしたら、大の大人が三人とも家から出て来た淀川氏に叱られた、と言う話だ。

「君たちは、誕生日をなんと思っているんだ!その日、一番、苦労したのは、君たちを産んだ母親だろ、それなら、今日は、自分たちの母親に感謝すべき日じゃないか、こんなこともわからないのか、さっさと帰って、お母さんのお墓参りでもして来なさい!」と追い返されたそうな。

なるほど、誕生日とは、自分を産んでくれた母親に感謝すべき日だったとは、とウロコから目じゃなかった、とにかくそんなわけだ。

そう考えると、世の中の人は、あまりにも暗すぎる。自分の誕生日は、この世で一番、暗く過ごさなくてはいけない日かのように過ごしてしまっている人たちが多すぎる。
自分の誕生日なんか、誰も気づいていないし、誰も祝ってくれません、というわけだ。

ああ、なんと言うことか。
産んでくれた母親に感謝すべき日だったというのに、その日が、一番、呪われた暗い日として、いじけて過ごしてしまっている、ってことだ。

これでは、母親に感謝どころか、母親も、ショックだろう。自分の子供は、誕生日を一番、暗い日として一人過ごしているってことだからだ。まったくもって情けない、と言う感じか。

誕生日は、母親に感謝したり、回りに感謝したりする日と考えると、あれこれやる事もあるだろう。母親がまだ生きているとしたら、その日は、ディナーに連れ出すわけだ。そのための予約も取っておかないといけない。誕生日は、自分のためにやるもんではないからだ。

ということで、私も20年前から恒例となっている食事会を行った。

しかし、現実は、そうそう、上手くは行かない。

年寄りだから和食の懐石料理がいいだろう、と手配したら(これまでも、すべて不評だった。)、この料理は、大した事ない、と私が食べているアグ~のシャブシャブに父親が、手を出して来た。

くそ!この懐石料理が一体、いくらすると思ってんだ!と思わず注意する。

最初、予約する前に「シャブシャブはどうか?」とちゃんと聞いたのに、その時、父親は、「シャブシャブは、好かん!」と言っていたので、じゃあ、和食がいいだろう、と言うことになったわけだ。

それなのに、何で、目の前の私のシャブシャブに手を出しているんだ!懐石料理もちゃんと残さず食べろよ!、と喧嘩になった。

「シャブシャブは嫌いだって言っただろ!、じゃあ、何でそう言ったんだ!」と聞いたら「肉の味がしなかった。」と答えた。

以前、1度、確かにシャブシャブ料理を兄一家も含め食べたことがある。ひょっとして、父親は、あの時、タレを付けないで食べていたんじゃないか、と判明した。

どおりで、今回、鍋の中のお湯を見た時は、「これは、出汁だからな。」と、何か、妙な事を言っていたわけだ。

シャブシャブが、食べきれるなら最初からそう言えばいいだろ!と口論になってしまったわけだ。(豚肉が、シャブシャブで食べられるのか、不安でもあるようだ。)

すると、終いには、自分は、本当は、インスタントの塩ラーメンが大好きだ、と言い出した。
こ、こんな奴になんで、こんなおもてなしをしなきゃいかんのだ、と腹が立って来た。

さらに、感謝を表すべきメインの母親は、母親で、今日は、夕方からディナーのためにホテルのレストランに行くからな、と1週間前から言っていたにも関わらず、昼間、友人との「モアイ」があって、食べ放題のレストランに行った、という。

(沖縄では、恒例の「模合い」。何人かで、毎月、定額のお金を出して、くじ引きで、その月、みんなの合計金のお金を借りる人を選ぶ会」。友人同士の親睦も意味も兼ねて毎月集まる意味でやる場合もあるし、本当にお金に困っている人たちのための場合も当然ある。その時は、友人、知人で形成される。多くても10人は行かないかもしれない。

当然、くじ引で、お金は、借りたが、その後、トンズラという話も昔からある。お金に困った人は、座元になって、人を集めて、毎月、1万円ほど、出し合って、くじ引で、その時、借りる人を決めるわけだ。利子がないので良いわけだ。10人集めたら、最初で10万円が借りられる。しかし、その後、9ヶ月は、毎月1万円づつ出さないといけない。)

母親に何で、こんな日に食べ放題なんか行くんだ!と言うと、父親が、「お腹一杯なのは、それが理由じゃない。帰りに芋くず天ぷらを買って来て、昼間、家で食べたんだ。」と、すかさず言って来る。食べ放題の帰りに天ぷらまで買って帰ったらしい。

案の定、母親は、にぎり寿司セットがお腹いっぱいで食べられないといい、それを私が、食べ、父親もウニ寿司があるな、と二人分食べた。なんだ、寿司は、食べられるのか、と思ったら、帰りの車中、「あそこの寿司、おいしくなかったなあ~」と言った。

親への感謝の日と言うが、この時ばかりは、こいつらは、一体、何なんだろう、と思ったものだ。(私が16歳で家を飛び出した気持ちもわかるはずだ。)

まったくもって、今日は、誰の何の日だと思ってるんだ。

私のモットーは、親が何時死んでも後悔しないことだ。
それは、こうした親との関わりでも同じで、自分は、自分なりにベストを尽くしているつもりではある。
実家のクーラーも替えてやったし、すでに地デジも入れている。

電話だって、老夫婦の家には、ふさわしくない「ナンバー・ディスプレイ」付きだ。登録した相手の電話番号が、表示されるから、誰から掛かって来たかわかるわけだ。これは、昼間、洗濯をしているのに、広告電話が多いので、いちいち中断しないといけない、と愚痴をこぼしていた母親のために入れたわけだ。

地デジの他にもケーブル・テレビを10年も前から入れて上げている。そのため、父親は、まだ健在な88歳の実兄の家に遊びに行った時、「なんだ!この家のテレビは、チャンネル数が少ないじゃないか!」と哀れんでいたもんだ。

なぜ地デジをすでに去年の時点で入れたかと言えば、去年は、父親が82歳で、新しい機械の操作を覚えるのは、もうこれが限界だろう、との判断からだ。

現在、父親は、83歳で、携帯電話を持って使いこなしているふりをしているが、あれも、使い方を教えたのは私だ。

ああした人種の老人に物事を教えるのは、闘い、としか言いようがない。常に、口論だ。私は、教えることが専門だ言うのに、全く、私の教え通りにはしない。あるボタンの機能の説明をしていると、すぐに別のボタンに興味を持って、これは何だ、と聞いて来るわけだ。

「うるさい!まず、このボタンの意味を知ってからだ!」と怒鳴ると、「もう、おまえには、何も聞かない。。」と、すぐにテレビを見て、携帯に興味がないそぶりを見せる。
こうやって、一つのボタンのことを教えるのに3日ばかり掛かるわけだ。

しかも、教えた先から、すぐに携帯電話の取り方も忘れるから、一日に何回かは、わざと携帯に電話を入れて上げないといけない。何度もコールしてもなかなか出ないのは、受話器のボタンを探しているわけだ。

私の業績で素晴らしいとしかいいようがないのは、携帯での写真撮影を父親に”調教”したことだ。おかげで、盆栽や植木の写真を取り巻くっては、保存している。(メールを教えるのは、不可能だからパスだ。テレビだって、結局、ビデオ録画は、無理だった。何度やっても忘れてしまう。自分で毎日、練習しなきゃいけないからだ。年寄りには楽器練習と同じだ!)

写真を保存はしているが、たまにどうやって保存した写真を見るかを忘れるので、その度に出陣だ。
気に入った写真は、待ち受けにしてくれと言うから、待ち受けには、父親が自分が栽培したゴーヤーが、写っている。これをどうやら、友人らに自慢しているようだ。

(友人は、私に似て、みんな10歳くらい自分より若い者が多い。同郷「田舎」の者たちだ。それでも70歳くらいだが、、。同い歳くらいでは、ああは行かないだろう。)

そんなこんなで、ちっとも楽しくないディナーとなった。

やれやれ、とその夜は、録画してあるテレビ番組のストックの中から誕生日にふさわしそうな番組を見た。

*ETV特集:「死刑囚 永山則夫 獄中28年間の対話」
 
1968年~69年、連続ピストル殺人事件をおこした、当時19歳の永山則夫(1949年6月27日~1997年8月1日)の本に同じような環境だったと共感、同情し、獄中結婚した女性、和美さんは、沖縄の女性だったとは知らなかった。祖母に育てられたハーフの女性である。回りを恨んだ時、自分は、お祖母さんの顔が浮かんで来たので救われた、と言う。(死刑確定後、落胆した永山は、一方的に離婚している。)

永山は母親に幼児の頃、貧しさのあまり北海道で捨てられ1年後に母親に会っている。環境、教育、死刑、人生、幸福を考えるテーマとなった。


*BS:衛星映画「スタートレック ネメシス」2002年、劇場版第10作 (4/2)

アンドロイドのような”データ”少佐(?)が、任務の遂行しかできないロボットのような兄との違いに触れ、「兄と違う点は、自分は、つねに、今の自分より、よりよく生きたいと願っている所だ。」という台詞があった。(To be better than I am.)この台詞が、映画の伏線となる。

*NHK:矢沢永吉&糸井重里 今だからこそ「お金」の話 (8/1)

これは、もう痛快に面白かった。さすがの二人だ。「成り上がり」(1978年、小学館)は、糸井重里氏が作った、という事は当時から知っていたが、あれから34年か。

78年といえば、私が、19歳。当時、出たばかりの「成り上がり」に感動したものだ。う~む、やはり最強のコンビだなあ。この対談が、本になったらいいのにと思う。完全にこれこそ「続、成り上がり」だ。矢沢、50代になった時の心境の話もあり、あれこれとまたまた勉強になった。

51歳となった誕生日は、こんな感じで過ごした。

翌日神社仏閣参拝を済ませる。

明日は、意味もなくビーチ・パーリーに朝から行く事にはなっているが、やっぱり、朝起きたら昼かもしれない。


8月6日、金曜日、琉智氏から、さっそく、ブログの影響か、シングルCD「時は昭和の真ん中で/母さんの日記」が送られて来た。CDは、県内の以下の店に置かれているそうだ。

照屋楽器店
譜久原楽器店
(株)琉球補聴器、各店

なんだか催促したようで悪い気はするが、まあ、誕生日ということでいいだろう。

さっそく神棚に奉納。
ミュージシャンは、自分が、心を入れた演奏は、誰の作品であっても忘れないものだ。
もちろん、心なんか入れていないバンドマンの仕事は、その日の酒とともに忘れていて、ギャラも残ってはいない。

そんな、hand-to-mouth (「手で稼いで、すぐに口へ入れる=その日暮らし)なバンドマン暮らしでは、人間は、幸せにはなれないなあ、とつくづく思う今日この頃の51歳である。




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Posted by TOMOYOSE TAKAYA at 00:00 │人生論テレビ、映画父母の話